第十八章:知らなかった声
月影草による調合の失敗から一週間後。
研究所は静かに、だが確かに再び歩みを進め始めていた。
香草の分類と特性の再検証が始まり、誰もが以前よりも一段慎重になっていた。
しかし、不思議なことに、その空気は重苦しくはなかった。
ラーグの変化があったからだ。
調合台の端に座る彼は、若い見習いの意見を以前よりもずっとよく聞いていた。
「先生、この香草、日陰に置くと香りが変わる気がするんです」
「そうか。…いいな。根拠がないなら、確かめてみよう。そういう“違和感”が、一番大事だ」
彼はかつてのように“結論”を先に置かなくなった。
むしろ、問いから始めることを尊ぶようになった。
そんなある日、一人の名もなき村人が研究所を訪れた。
年老いた女性で、腰を曲げて袋を抱えていた。
「エルラさま…これは、私の母が使っていたやり方で、あまり効かないと笑われたこともありました。でも、火傷のときだけは不思議と効いたんです」
エルラは驚いたように袋を開き、中の草に触れた。
「…これ、火熱に反応して水分を引き寄せる成分がある。…ねえ、これ、“火傷用”の調合に使えるかもしれない」
ラーグも覗き込んで、息を呑んだ。
「こんな草、文献では完全に“廃種”扱いだった。でも…」
その時、彼の中にかすかな震えが起きた。
(“使われてないから無価値”って、いつの間に俺も思ってたのか…?)
老婦人は言った。
「効くって分かってたのに、昔、“先生”に鼻で笑われて、それっきり誰にも話さなかったのです。でも、あの日、先生が自分の失敗を皆の前で言うのを見て…
ああ、“話してもいい”と思えたんです」
ラーグはその言葉に、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。過去を捨てていたのは、僕らの方だったのかもしれません」
その夜、研究所の裏庭で、エルラが静かに語った。
「ねえ、経験とか実績って、積み上げるものだと思ってた。でも、本当は、“目線の高さを下げること”で使えるようになるものかもしれない」
「…俺たち、ようやく“ちゃんと見える場所”に降りてこれたのかもな」
ふたりは、過去の成功体験や肩書きの重さを脱ぎ捨て、
誰とでも等しく目線を合わせることの価値を知った。
その変化は、周囲にも広がっていった。
若い見習いが自分の失敗を正直に語るようになり、
街からの薬師たちも、村のやり方に積極的に耳を傾けるようになった。
そして何より、人々の間にあった「上下の壁」が、
驚くほど自然に――崩れていった。




