第十七章:過去の光、今の影
研究所は今、もっとも重要な調整段階に入っていた。
これまでに村で集めた香草と、街から持ち込まれた新種との調合研究――
その成果は、来月の「東域合同薬術会議」で発表される予定だった。
ラーグは、その準備の中心にいた。
各種の記録、調合法、保存法の分類、過去との比較…。
彼はこれまで培った文献知識と旅の経験を生かし、精緻に整理していた。
だが、エルラはどこか落ち着かない様子だった。
ある朝、調合室で静かに言った。
「ラーグ、あの“月影草”、まだ結論出してないのに混ぜるの?」
「大丈夫だ。成分は過去の“夜香草”と近い。俺の記録では、気圧と湿度の条件が整えば同じ反応をするはずだ」
「でも、“似てる”だけで、“同じ”じゃないわ」
「……エルラ。俺はこれまで、こういう判断で間違えたことはない」
その言葉に、エルラは口を閉じた。
彼の“経験”は確かだった。
しかし、その日、ふたりは別々の机で作業を終えた。
翌日、調合した保存薬を試験保存棚に入れた直後、異変が起きた。
中和液との反応が遅れて腐敗熱が上がり、保存瓶の一部が破裂したのだ。
幸い、誰にも怪我はなかったが、研究の中心だった調合記録の一部が台無しになった。
ラーグはその破片を拾いながら、ただ立ち尽くしていた。
“まさか、俺の判断が間違っていたなんて…”
エルラがそっと近づいた。
「…似ていたけど、違ったわね。月影草は、湿度に反応する“速度”がまったく別みたい。
でも…怖くて、昨日あなたを止めきれなかった。経験ある人に“待って”って言うの、すごく勇気がいるから」
ラーグはそれを聞きながら、心が締めつけられるのを感じた。
彼は気づいた。――
(俺は、“成功してきたから今回も成功する”と、無意識に思い込んでいた。過去の栄光で、未来を測ってしまっていた)
その夜、ラーグは村の会合で、皆の前に立った。
失敗について、隠すことなく話し、最後にこう締めくくった。
「俺は過去にすがっていた。そして、“過去に成功した者こそ、未来にも成功する”と思い込んでいた。
でも、自然も、人も、薬も、時と共に変わる。
変わらない“自分の見方”の方が、よほど危うかった」
村の者たちは静かに聞いていた。
若い薬師のひとりが、そっと言った。
「先生が間違えるなんて…でも、それを認める姿を見て、安心しました。
“間違ってもいいんだ”って思えました」
ラーグはその言葉に、はじめて息をついた。
同時に、エルラが優しく言った。
「経験があるって、過信しないときこそ、ほんとうの強みになるのよ。
あなたは、今からもっと頼れる人になる」
彼は頷き、深く一礼した。
慢心は、気づかぬうちに静かに根を張る。
だが、その根を抜き取ったとき――
そこには新しい、まっさらな土が広がっていた。
そしてその土に、また謙虚な問いの種がまかれていた。




