第十三章:それでも残るもの
秋も深まり、村の木々は金と赤に染まりはじめていた。
ラーグは研究所の裏にある、小さな納屋でひとり、古い手帳を開いていた。
それは、彼が軍の書士として旅をしていたころに書き残した記録だった。
失われた仲間の名。砦で燃えた文書。病で去った同僚。
一頁ずつに、静かな喪失の痕跡が残されていた。
エルラがそっと戸口に現れた。
「また見てたの?」
「うん。…あのころのことを、思い出していた」
「…今も、苦しい?」
ラーグは手帳を閉じた。
「いや。少し違う。…俺はずっと、“これ以上何かを失ったら、もう立っていられない”と思ってた。だから、何かを築くのが怖かったんだ。誰かと近づけば、また離れる日が来ると思っていた」
エルラは静かに座った。
風が納屋の隙間から通り抜け、枯葉がひとひら舞い込んだ。
「私もよ。母を亡くしたとき、“もう何もいらない”って思った。誰かと関わるたびに、何かを奪われる気がしてた」
しばらくふたりは黙っていた。
そのとき、外から足音が近づいた。
それはベルドだった。彼の顔は蒼ざめていた。
「東の丘が燃えてる!薬草の貯蔵庫が、火事だ!」
ラーグとエルラは立ち上がり、すぐに走り出した。
村人たちも集まり、バケツを手に走り回っている。
燃えていたのは、研究所の裏にあった予備の薬草庫だった。
誰かが誤って火を扱ったらしい。
火はすぐに抑えられたが、数か月分の貯蔵が灰となった。
若い薬師たちは呆然と座り込み、年配の村人の一人はぽつりとつぶやいた。
「これで、もう来年の保存分は間に合わんかもしれん…」
その言葉に、ラーグの胸の奥にかすかな震えが走った。
かつて彼が最も恐れていた、「築いたものが失われる」瞬間。
だが次の瞬間、まるで別人のように動いたのは、あのベルドだった。
「いいや、まだ終わってない!種は残ってる。乾燥用の小屋もある。街からも援助が来てるんだ。今から動けば間に合う!」
若者たちが立ち上がり始めた。
その勢いに、年配の者たちも少しずつ腰を上げる。
エルラがそっとラーグにささやいた。
「ねえ、見た?…彼ら、倒れなかった。失っても、立ち上がった」
ラーグは目を見開いた。
「…驚いたな。俺たちが支えなくても、もう彼らは…」
「私たちより、強いかもしれない」
その夜、灰になった薬草庫の前に、ひとつだけ無事だった瓶が置かれていた。
村の少女がそれを見つけ、大事そうに抱えて戻ってきた。
「先生、これだけは守れました!」
瓶の中には、去年ラーグとエルラが最初に調合した保存薬が残っていた。
ラーグはそれを受け取って、長く息をついた。
そして、不思議なことに――心が少し、軽くなっていた。
喪失は痛い。
けれど、失っても、すべてが終わるわけではない。
そのあとに残る“何か”が、きっと新しい始まりになる。
彼はエルラを見た。
「もう、“これ以上は耐えられない”なんて、言わないかもしれないな」
エルラは微笑んでうなずいた。
「うん。だって、ちゃんと残るものがあるもの」




