【3】
いま僕は大学生で、もうすぐ二十歳。
この十年で三回、あのナイフを使ったことになる。
僕は単なる殺人鬼なんかじゃないよ。『殺したい』から刺したことなんて一度もないからね。そうされる理由がある奴だけ。
だからって、正義の味方を気取る気もないけどさ。
背中からナイフを抜いて、今まで人間だったものに背を向ける頃には、あれほど燃え盛ってた筈の炎はこの身のどこにも見つけられない。
そのままごく普通に日常に戻って、家族や友人と笑って話して、勉強して。数年は平穏に過ごせるから。
でも、もうそろそろだ。僕の中でざわめきが起き始めてる。燻ってた火種が炎になり掛けてる。
──近いうちに、大きく育った炎が僕の身体を中から炙り始めるだろう。
◇ ◇ ◇
「ボーっとしてないでよ!」
「あ、あの。ごめ、すみません……」
後ろから歩いて来て追い越した若い女性にぶつかられて、おそらく高校生くらいの女の子がよろけてバッグを落とした。吐き捨てられた言葉に悪くもないのに謝る少女に、派手に舌打ちする女。
……よし、決まった。
少し離れて女のあとを着いて行く。
僕は感情があまり表に出ないみたいだ。
実際、今みたいに内心高揚してたとしても、それを他人に気取られたことはないしね。自分で思うよりずっと、挙動不審とは程遠い落ち着いた言動を取ってる、らしい。
これまでの犯行でも、すぐ背後に近づいたって相手に警戒されたことはなかった。
ナイフを突き刺す、その瞬間まで。
人通りのない場所に来たのを確認して、獲物との距離を詰める。
いつもの如く、ポケットの中で握っていたナイフを出して背中に狙いを定めた、その時。
相手の女が不意に振り向いた。
さすがの僕も、咄嗟に動きが止まる。
彼女の目が刃物を捉え、叫び声を上げようと息を吸ったその口を塞がないと、と考える前に勝手に手が伸びてたんだ。
ナイフを持ったまま。
集中も途切れて柄を掴む力も緩んでいたせいで、防御しようとした女にナイフを奪われた。取り返そうとする僕と、逃れようとする女が揉み合いになる、までもなかったらしい。
気がつくと、僕は地面に横たわっていた。腹を、刺されたみたいだ。
「あた、あたし、……嘘、でしょ」
仰向けに倒れた僕の目の前で、彼女はぶつぶつと呟きながら僕の血に汚れた両掌を呆然と見つめている。
ナイフはもう、その手にはなかった。
顔を横に向けることも、……それどころか指一本動かせないから確かめられないけど、たぶん足元に落ちてる?
どうなのかな。
確かなのは、僕の身体からは抜かれたってことだけ。
眠い。
瞼が重いよ。
わかってる。眠気じゃないよね、これは。
でもどうしてだろう。不思議と痛みは感じないんだ。
今まで僕が殺した人も、同じく平気だったのかな。そういえば、そんなこと考えたことなかった。
……このまま目を瞑ったら、僕の生は終わるんだろうな。そうしたら、この『衝動』も無くなる。
だって大元の命の火が消えるんだから。
僕の身体から急激に熱が去って行く感覚がした。僕の内側のすべてを舐め尽くすように、指先まで届いていた炎が弱々しく揺らいで、縮小する。
だけど、少しずつぼやけて狭まって行く視界の中で、僕は確かに見たんだ。
驚愕に見開かれた女の瞳の奥の、微かな光。
ああ、そうか。僕の中の炎はこの女に飛び火したんだ。
──もしかしたら。もしかしたら、僕にも最初に殺した男から……?
そうだよ。だって僕はあの時まで、人を殺したいどころか傷つけたいとさえ考えたこともなかった。
最初はあくまでも、自分の身を守るためでしかなかったんだから。
この『炎』は、ごく普通の人間を変えてしまうような。……あるいは、ごく普通の人間が気づかないうちに心の奥に秘めてるものを露出させてしまうような。
そういうもの、なんだろうか。
今はまだ熾火。種火。
その身のどこか、奥の奥で燃え上がる機会を待っている。
僕がそうだったように、この女が人の死を渇望するようになる、その日まで。
それは、いつ?
さあ、早くナイフを拾って手を洗わないと。誰かに見られる前に。手袋は持ってないの?
だったらコートのポケットに手を入れなよ。冬だから不自然じゃないしさ。
その黒いロングコートは返り血も目立たない。偶然だとしたら幸運だったね。
最初の経験からも、僕は故意に着るもの履くものに黒を選んでたけど。
僕が死んだら、これが貴女の初めての殺人になるんだよ。
そして最後じゃない。きっと、始まり、で、──────………………
~END~