2月14日の「しらすあなご」
お姉ちゃんの顔が尋常じゃない。
真っ赤だ。
鼻血出すんじゃないだろうか。
とりあえず、箱ティッシュを投げつけておく。
ぽこん、と胸元に当たっても全然気にしない。
というか、その余裕がない。
「あ、あの、と、届いてよかったです。ええと、その本はおじいちゃんの本で」
スマートフォンを耳にあてて、電話の相手に答えるだけでキャパオーバーになってる。
うわー、マジで恋してるじゃん。
それなのに無自覚とか、タチ悪いなぁ。
風呂上がりの私はソファにもたれて、フローリングの床に姿勢良く正座をして電話をするお姉ちゃんを、呆れた顔で見ている。
※ ※ ※
小さい時からお姉ちゃんはお姉ちゃんだった。
6歳も離れていると、姉妹で喧嘩をするというよりは、面倒をみる姉とみられる妹でしっかりと役割分担が出来上がっていた。
それに私が中学に上がると同時に、お姉ちゃんは大学進学のために上京してしまったので、イライラの対象にはなることがなかった。いつまで経っても私の面倒をみてくれる優しい真面目なお姉ちゃんのままだった。
そのお姉ちゃんがボロボロになって帰省してきたのが4年前の正月。私は高校1年生で進学するならどこかなと呑気に考えていた頃だった。
就職の内定が決まらず、真面目なお姉ちゃんはすっかり疲れ切っていた。私はせめてもの励ましにと、レアチーズケーキを作った。お姉ちゃんは喜んで食べてくれたけれど、とても心配だった。
ーーー別に就職が決まらなかったら、うちに帰ってくればいいじゃない。今度は私が進学して出ていくのなんてあっという間だし。
そう言ってしまいたかったけれど、お姉ちゃんが頑張っているのに、何も知らない私が口を出す勇気もなかった。
ただ、お姉ちゃんが元気に過ごしてくれればいい。それだけが私の願いだった。
私が大学進学を決めた時、お姉ちゃんと同居することになった。正しくは、同居するようにお願いをした。
一人暮らしが怖かったせいもあるし、お姉ちゃんが無理してないか心配だったせいもある。それともただ単に、お姉ちゃんを独り占めしたかっただけかもしれない。
今になれば、同居して正解だった。
大学は始まってもリモート授業ばかりで、1人だったら本当にダメになっていた。お姉ちゃんが朝と夜にそばにいてくれて、本当に心強かった。
それに、2人暮らしになるからと広いアパートに越したことも良かった。ずっとワンルームで独り暮らしとか、外出自粛で耐えられそうになかった。
ようやく大学での対面授業が再開した時に、友達になれそうな人たちと知り合ったり、文芸サークルに顔を出してみたりした。そこで少しずつ男女問わず知り合いが増えて、だらだらと雑談をするようになって、ふと気がついた。
お姉ちゃん、彼氏いないよね?
仕事に行って、買い出しをして、私とご飯食べて、時々一緒に出かけて、おしまい。
いや、友達とは会ってるのかな。
それはそれで楽しそうなんだけど。20代後半なら、ちょっとは気になる人とかいないの?
なんか。もったいないなぁ。私の自慢のお姉ちゃんなのに。
休日でも不要不急の外出は控えろって言われてるから、家にいた方がいいんだろうけど、お姉ちゃん、パソコンで小説書いたり読んだりしてるだけでいいの?楽しそうだからいいんだけどね?うん。でもさぁ。
そんなふうに、年配のおばちゃんみたいな目線でお姉ちゃんを見守っていた。
このまま姉妹で一緒に暮らすのもいいのかなぁと思い始めていたら。
「チョコレート?送ればいいじゃない。仲良いんでしょ?」
「会ったことないし。顔も知らないし。気持ち悪くない?」
おじいちゃんが私のために作ってくれた猫の湯飲みでのんびりとお茶を飲んでいたら、急にお姉ちゃんがご乱心し始めた。
なんでも小説投稿サイトで交流のある人が、感想返信でチョコレートが欲しいと送ってきたと。今年こそとあったなら、去年までの長い期間誰からも貰ってないのでは。それならと勢いで思ったらしい。
お姉ちゃん、顔が真っ赤ですよ?
ちょっと、これは。もしかして、お姉ちゃん、ずっと片想いしてたの?え?まじで?
しかも気付いてないの?
私はにやにやが止まらなくなり、急に甘いココアを飲みたくなった。台所にひとり立って、小さな片手鍋でゆっくりと牛乳を温める。その中にココアと砂糖を少し。
表面がふんわりしてきたら、出来上がり。
こぼさないように、ゆっくりと湯呑みに注ぐ。
ふふふ、甘い匂い。
この湯呑みも私が「にゃんにゃん」としか言えない頃におじいちゃんが作ってくれた猫シリーズのひとつ。お姉ちゃんが好きだった熊と兎は何年か作って売っていたから、それなりに市場に出ている。その内の1つである熊のマグカップがお姉ちゃんのお相手の手元にあるらしい。
さらに、その熊のマグカップからの発想でおじいちゃんと熊の物語を書いたらしい。
これはお姉ちゃん、恋に落ちるわ。
そりゃあ、彼氏作ったりしてないわ。
しかも直接会ったことがないから恋じゃないと言い張っているし。
平安時代の貴族は、顔を合わせないままに恋をしてますけど?
むしろ、顔を合わせる時は初夜では?
にやにやとしてしまうのを抑えて、そっと湯呑みに口をつける。少し冷めて飲みやすい温度になったココアがするりと口の中に入る。ふわっと鼻にまで甘い香りが広がる。
こくん、と飲めば体がほかほかしてきた。
湯呑みを両手で包んで、余すことなく温もりを堪能する。
お姉ちゃんもココアを飲むか聞こうと部屋に行ったら、布団の中に丸まっていた。鼻血を出したのかと思って箱ティッシュを投げたら、血は出てないけど真っ赤な顔のままだった。
はいはい。ココアなんか要らないくらい甘いよねー。はいはい。
布団をかぶせて、ぽんぽんしておいた。
*
*
チョコレートを送るだけなら、バレンタインの2月14日じゃなくてもいいんじゃない?だって、感想返信でもバレンタインチョコとは書いてなかった。
聡明な妹の私はそれに気づいていたけれど、黙っていた。
だって、お姉ちゃんがその日に送りたいってことだから、ね。
ネット通販をしているお姉ちゃんの会社で一番品物にうるさ…詳しいのは社長さん。
お姉ちゃんを妹のように可愛がっているようで、「それじゃあ、あなたは末っ子の妹ね」と初めましての挨拶の時に言われたのは衝撃的だった。まあ、その社長さんがバレンタインチョコを探しているお姉ちゃんを知ったら、もう後は予想通り。
お姉ちゃん、口に出してないけど、絶対本命チョコでセレクトしてたでしょ?
会ったことない人に恋してない?はいはい。ソウデスネー。
味に自信がありつつも、いきなりの本命チョコで重たさを感じさせないようにという社長さん推薦の赤い箱に入ったチョコレートと、相手の人が読みたがっているおじいちゃんの本を一緒に送る。
あれ?もしかして、これ、おじいちゃんが見合わせた?
お姉ちゃんが何度も宅配便の伝票を書き直している時、私は気がついた。
感想のやり取りの前に、おじいちゃんの陶芸家のまじないで、赤い糸が結ばれてたの?いやいや。おじいちゃん亡くなっているし。
でも、もしそうなら、きっとお姉ちゃんと相手の人は、ハッピーエンドになるんだろうなぁ。
いいなぁ。
*
*
そして、2月14日の夜。
5分経ってもまだ正座のまま、真っ赤な顔で電話しているお姉ちゃん。体勢も顔色も変わらないのをずっと見ているのも飽きてきたので、私は台所へ避難した。
いやー、暑い暑い。
おかしいな。極寒の2月のはずだ。
まあ、お姉ちゃんも暑そうだし、アイスティーでも作ろうか。確か記憶力に効能があるミントティーがまだあったはず。
初めての電話が無事にお姉ちゃんの記憶に残りますようにと、願いを込めてお湯をティーポットに注ぐ。
ガラスのティーポットの中でゆらゆら動くミントを眺めながら、感想のやり取りで恋になることもあるんだなーと、物語の偉大さを噛みしめていた。
感想は運命の赤い糸なのかもしれない。