2月14日の「燕空旅人」
夜の徘徊を終えて、日付の変わる直前にオレは「しらすあなご」さんに住所を入力したメッセージを送信した。
もちろん『嬉しいです。』と抑えに抑えた本音を添えて。
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そして、待ちにまったバレンタイン当日。
2月14日の夜。
「しらすあなご」さんには日中は仕事で不在だと連絡してあった。だから、夜8時頃の時間指定で送って貰うことにした。
そう、宅配便で届く。
それなのに、帰宅するまでの間ずっと、「しらすあなご」さんがチョコレートを持ってオレのアパートで待っているんじゃないかという痛い妄想が止まることがなかった。
いる訳ないだろう。顔も知らない男のアパート前で待ってたって、誰が誰だか分からない。いや、違う人と気が付かないままに、同じアパートの独身男性に騙されて部屋に連れ込まれてエロいことに…って、どこのエロ漫画だ。そんなことは現実では起こらない。
それに今日に限って雪のためか定時で帰れてしまった。宅配便が届くまで落ち着かないことこの上ない。
途中、スーパーで食材を買い込んでみる。もし「しらすあなご」さんが来たら、ご飯を作って食べられるようにっ…て、いや、来ないから。来ない来ない。
オレはそわそわと買いすぎたカゴの中身をエコバッグに移しながら、レジ近くのバレンタインコーナーを余裕を持って眺めていた。
ーーーオレも今年はチョコレートを貰えるんだ。
別に勝ち誇る必要もないのに、勝者の気分に浸っていた。
マスクの下で、にやにやしてしまうのを懸命に堪えた。
アパート近くになっても、階段をのぼっても、部屋の前に着いても、誰もいなかった。
そりゃそうだ。いるわけがない。
オレは神妙な気持ちで玄関の鍵を開けると、静まりかえった部屋の匂いを嗅いだ。
うん。いつも通りに、誰もいないし、誰も来ていない締め切ったままの部屋の匂いだ。
だから、一体オレは何を期待している!!
そろそろ自分のバカな妄想を止めよう。
オレはマスクを外すと、厳かに手洗いうがいを済ませ、料理をするべく台所に立った。
無心で野菜を切る。作るものは、決めていない。とりあえず、切る。ひたすらに、切る。
肉じゃがとカレーと野菜炒めと、あと何にしようか。皿とステンレスのボールいっぱいになった野菜を眺めて、適当に決める。
その時、スマートフォンから電話の着信音が鳴り響いた。
「え、まさか」
住所と一緒に電話番号も、実は教えていた。いや、ほら、宅配便の伝票に書く必要があるから。何も余計な期待とかしていないから。
そう思いながら、画面の表示が会社の後輩の名前だと確認した時は、非常にがっかりした。
「はい、なんでしょうか」
「ちょ、先輩、なんか怒ってませんか?」
「うるせえ、リア充。なんの用だ」
「リア充は先輩じゃないですか。俺はまだバレンタインチョコなんか貰えませんもん」
鷹揚に答えられた。これがリア充殿堂入りしたヤツの余裕か。ちっ。
「舌打ちしないでくださいよ」
「心の声が漏れた」
「何言ってるんですか。チョコレート楽しみですね〜」
ちくしょう。浮かれMAXになった昼休みのオレをぶん殴りたい。思わずチョコレートが今夜届くと話してしまった。
「いや〜、感想のやり取り読みましたよ〜。微笑ましいですね〜」
「うるさい。今、コンロで火を使ってるんだ。特に用がないなら、切るぞ」
「え、先輩、落ち着かないから料理してるんですか?何それ、かわいーー!」
「うるさいうるさい。切るぞ。お前こそ電話してないで、ちゃんとかまってやれよ。嫌われたらチョコレート貰えないぞ」
「はーい。今から頑張りますぅ。さっきちょうど眠ったんで、先輩どうしたかなぁと」
「はいはい。心配どうも。じゃあな」
電話を切る間際、起きたのか不機嫌そうな泣き声が一瞬聞こえた。
まだ乳児の娘にチョコレートは貰えないだろうが、奥さんからは…貰えないか。買い出しにもまだ行けないくらいの赤ちゃん抱えてるんじゃなぁ。
「いいなぁ。ひとりじゃないって」
思わずこぼれた本音をオレは深く考えないように、勢いよく音を立てて野菜炒めを作り始めた。
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野菜炒めとカレーを食べて、食器も鍋も全部洗い終わって暇になった頃、宅配便のお兄さんから荷物を受け取った。
ポーカーフェイスを装っていたが、内心は狂喜乱舞に欣喜雀躍だった。
お兄さん、遅くまで宅配業務お疲れ様です。届けてくれて本当にありがとうございます。これバレンタインチョコなんですよ。女性からの。バレンタインチョコだって、ばれていますかね?品名は「菓子」だけど、14日の指定があれば、分かってしまいますよね?むしろ、分かってください。お願いします。
人生で初めてのバレンタイン当日指定のチョコレート宅配で、テンションが壊れている。
玄関の扉を閉めて、鍵をかけて、届いた小包みを目線より上に掲げて机まで運んだ。
そして、そこから更に頭が壊れる展開が待っていた。
「しらすあなご」さんの住所が、隣県で東京寄りの所だった。
オレの住んでいる所と行き来できるくらいに近い。
几帳面な筆跡で書かれた宛先と送り主の欄を見て、しばらく呆然としていた。
この住所を書いたのなら、「しらすあなご」さんも近いと知っているんだよな。
あ、本名はこんな名前なんだ。
へぇ。
「…………あ、チョコ。とける」
機械仕掛けのように、カタコトで声をあげて、伝票と小包みの包装紙を慎重にはがす。
中身は高そうな赤い箱入りのチョコレートと本が1冊。
ずっと探していた、愛用の熊のマグカップを作った陶芸家が出した自費出版の本だった。
確か、傘寿を記念して作った本で、最初は出版社からのオファーがあったけれど、それほど売れる訳がないからと自費出版で作って終わりにしたというあの有名な。
いや、ものすごいレアな本なんだけど。
喜びのあまり言語中枢と理性を破壊されたオレは、ひたすら箱を開けては整然と並べられた12個のチョコレートを眺め、本を開いては目次に並ぶ文字を読んだ。
一番最後まで小さなメッセージカードは見ないふりをして。
……心臓がうるさい。分かった。読む。
赤いハートの形をしたメッセージカードを開くと、『受け取っていただき、ありがとうございます。』と、丁寧に書かれた文字があった。そして、『おいしいといいのですが』と心配そうな一言。
美味しいと伝えなければ。
右手を伸ばす。
オレは少し震える指先で、箱の中のチョコレートをひとつ、つまみ上げた。
普段食べているコンビニで買うチョコレートと違って、柔らかい。指先の体温だけで溶けてしまいそうに感じて、慌てて口の中に入れる。
舌の上にのせて、少しだけ舐めるように動かすと、チョコレートの輪郭がするすると溶けていくのが分かった。びっくりして唇を固く結んでしっかり味わおうとすると、口腔内に閉じ込められたカカオの香りが鼻先まで満ちる。
ーーーうわぁ。
一瞬で唾液が出る。広がる甘さ。わずかに残った塊の部分も溶けたチョコレートを飲み込むために喉を動かした瞬間に消えた。
残るのは、香りと甘さの余韻。
魔法のようなチョコレート。
思わず口元に右の掌を当てる。
確か、チョコレートって媚薬だったような。うん、そうだ。顔が熱いのは、チョコレートのせいだと、思う。たぶん、いや、きっと。
そして、箍が外れて、転がってどこかに行ってしまった。
荷物が届いたら、連絡をするという実家の母への対応と同じように、オレは「しらすあなご」さんの電話番号をスマートフォンに入力して、そのまま通話のボタンをタップした。