『チョコレートを送りたいので…』(後編)
なんだこれと思いながら読めば、年老いた陶芸家が山の奥で熊と友だちになっている。
陶芸家のおじいちゃん、襲われたら危ないなと思って読んでいたが、熊とお茶を飲みながらのんびりと会話をする様子が綴られていた。
大きめの花器が熊の湯呑みになっているのが微笑ましかった。
秋も近くなって、熊がしばらくの別れを告げると、『冬眠が終わったらまたおいで。お前を描いた茶碗を作っておこう』と陶芸家のおじいちゃんがゆったりと答える場面があった。
急に、亡くなったおじいちゃんを思い出した。
わたしが小さい時、食べものの好き嫌いが激しい時期があったらしい。らしい、というのはわたしが覚えていないから。
ただ、その時におじいちゃんがわたしのために作ってくれた絵付けの器が幾つも残っている。それら全てに熊か兎が描かれていたのだ。
妙にリアルな熊と兎。
それが数を重ねていくと、デフォルメされて丸っこい可愛らしいフォルムになっていった。その可愛らしい絵付けが晩年のおじいちゃんの作品では売れ筋になっていったらしい。
おじいちゃんの家に遊びに行った時に、おじいちゃんがお客さんと話をしているところに近づくと、
「この子のために、熊と兎を描き始めました」
と言って笑うのがいつもの決まったパターンだった。
「おじいちゃん…」
熱の残る体から、また水分が出ていってしまう。水を飲まなきゃと思いながら、スマートフォンの画面を見たまま、ぼろぼろと泣き続けた。もう文字なんて読めやしないのに。
おじいちゃんと熊と兎。
愛された記憶。
『がんばり屋さんだなぁ。おねえちゃんだからって、がんばりすぎなくていいぞ。
困ったら、おじいちゃんに言いなさい。
おじいちゃんがいなかったら、おかあさんでも、おとうさんでもいい。
誰かに言うんだよ。いいな?』
にこやかに笑うおじいちゃんの顔と、わたしの頭が撫でられる感触。
それらが全部わたしの中でぐちゃぐちゃになって、両目が兎のように真っ赤になるまで泣き続けた。
*
*
熱を出しながら、ぼろぼろに泣きじゃくった1月の初め。
熱が下がった後、わたしはたくさんの人を頼ることにした。
就職活動が惨敗続きだと、学生課の職員の人に相談をして、バイトをしていた洋食屋の店長にも相談した。
就職の決まっている友達にも、恥もプライドも捨ててアドバイスを貰うようにした。そして、自分の見栄や変な決まり事を見直して、必要と思う給料などをもう一度考え直した。
今、親の仕送りで借りられているアパートと同じくらいの部屋じゃなくてもいい。少し安い部屋に越してもいい。ちゃんとしたところに住めて、ご飯が食べられて、光熱費と通信費を払えればいい。
大丈夫。
わたしはちゃんと今まで生きてきた。
何も恥じることはないんだ。
正月の帰省と、おじいちゃんとの記憶を思い出してから何かが吹っ切れていた。
わたしにとって大事なもの。
それをわたしをほんのちょっとしか知らない人に、断定されても気にしない。知らないんだから。わたしのことを。
そう思うようになった。
2月になって、求人を出している会社は本当にわずかだった。内定を取り消した人たちのお下がりにすがりつくようで嫌だと思っていたわたしは消えつつあった。
入社して、働き始めればみんな一緒だ。
スタンバイできれば、それでいい。
そう思って、就職活動を続けた。
その間、何度も熊の話を読んだ。
途中で他の作品に気づいてからは、ポイントを入れて読んだ。
奇跡的に、卒業式前に内定が決まった。
ネット販売を主に行う小さな新しい会社だった。
バイト先の洋食屋の店長からの紹介だった。
「大卒の新人を採用したことがないから、色々と初めてだけど、よろしくね?」
私より10歳年上の女性の社長はそう言って、内定の決定を伝えてくれた。
内定をもらったその日の夜、わたしは何度も書いては消して、書いては消して。
あの作品の感想を送信した。
『拝読させていただきました。
日常のささやかな一場面なのに、心に響きました。
素敵な作品をありがとうございました。』
たったそれだけの文章を打っただけなのに、ぐったりとパソコンの前で崩れ落ちた。
「…ぎりぎり、間に合ったぁ。おじいちゃん、やったよぉ」
作品を書いた「燕空旅人」さんとおじいちゃんは何の関係もないのに、ずっと見守られているようだった。
「…クマの絵付けの陶器、ありますよぉ〜」
いつか教えてみたい。
そう思った。
*
*
内定が決まった翌週には引っ越しの準備を始めた。一応、今の部屋は都内のアパートでちょっと高い。娘の初めての東京暮らしを心配した両親からの愛だったと働くことが決まってからしみじみ思った。
隣の県に引っ越して、少し安いアパートに変えたけれど、特に不便はなかった。
就職活動の時に、あれほど怯えていた理由がもう分からなかった。
社会人として働き始めてから、小説の投稿も再開した。
けれど、またあんな感想が来るのが怖くて受付を停止していた。それでも活動報告にコメントを貰うことが増えて、このままでいいかなと思った。
わたしはわたしのやり方で。
そう思って、自分のペースで投稿や感想を書くこと続けていると、だんだんと「燕空旅人」さんとやり取りすることが増えていった。
時々、雑談のようなメッセージをする。
その中で知ったのが、本当におじいちゃんの作陶したマグカップを持っていることだった。
『古道具屋で見つけた時に一目惚れしました。』
マグカップの底にあるサインで、おじいちゃんの名前も調べて知っていた。
『ネットで本を出されていたと知ったのですが、市販されていないようです。読んでみたいのですが。』
そんなことをメッセージで送られてきたら。
「本、持ってますって言いたいじゃない〜」
布団の中で、うごうごと叫んだ。
本を送るなら、住所知らないとダメでしょ?だから、聞こうかな、どうしようかなと思っていたら。
「チョコレート、あげたいって思っちゃったんだもんなぁ〜」
何かに操られていましたって言ったら、笑って許してくれるかな?
返信はまだない。
わたしはもう一度布団の中でぐるぐると思考を続けた。
寒い季節の夜は長い。
どうにも長すぎる。