しらすあなご 『……お祝いしたいので、また会いませんか?』
お手洗いと書かれた札のついた白い扉を開けて、中に入る。
広めの化粧用ミラーの前で立ち止まると、真っ赤な顔をした自分が映っていた。
「〜〜〜〜うぅ……」
狭い棚の上にリュックと包みを丁寧に置いてから、鏡に映らないようにしゃがみ込んだ。
なんだろう、心臓が本当にぎゅうぅっとして痛い。心筋梗塞かな。死ぬのかなこれ。それくらいにツラい。
申し訳なさそうに目元まで赤くなった「旅人」さんが差し出した包みを受け取っただけで、後の記憶が無い。いや、ある。ごめん、嘘です。
しょうもない嘘をついたから余計に心臓が痛い。
知ってました。この美術館。
いつも美術館に来ては高い値段の季節限定の上生菓子を指くわえて見てました。
だって、高いんだもん。美術館併設カフェの値段は高いんですよ。だって、所蔵作品とのコラボが素晴らしいですからね!
でもさっきのように喋り倒すのはもう止めようと思って、初めて美術館の存在を知ったように言ってしまいました。ごめんなさい。
でも。
「……なんで、ここまでわたしの好みをピンポイントで突いてくるのかなぁ〜」
話していて楽しいとか、作品が好きとか、見た目が好みだったとか。もうすでにキャパシティが限界なのに。
「……絶対、これ、付き合いたいって思っちゃってるよなぁ」
まだ顔を合わせてちょっとの時間しか経っていないのに。この気持ちがあふれて零れて落ちてしまいそうで。
「……鼻血でもなんでもいいから、何かで出ればいいのに」
どうしていいのか分からない。こんな強い感情を抱いたのは、初めてでどうしていいのか分からない。
「……泣きそう」
せめて、ちょっとだけでもマシになればいいなぁと思うだけの思考回路が戻ったので、リュックから化粧ポーチを出した。軽く化粧を直して、もう一度改めて鏡を見つめる。
そして。
コロナの前に、結婚の決まった友人を囲んでお祝いした時のことを唐突に思い出した。
照れながらも婚約者になった男性の事を説明する時、今までに見たことがない柔らかい表情で微笑む友人がいた。
ああ。これが恋する乙女の顔か。
そう思った友人と同じ顔をした自分が鏡に映っていた。
そうか。わたしは恋に落ちたのか。
なんだか妙に納得して、わたしは大きく息を吐いた。
・・・
マスクをつけ直して席に戻るとすぐ、店員さんがトレーにのせた上生菓子と抹茶のセットを運んできた。
目の前に置かれたのは白い釉薬をかけた茶碗。その中で、抹茶の色が映えていた。
「……きれい」
一度振り切った感情が落ち着いたせいか、なんだか気が抜けてしまった。まだ目を合わせられない「旅人」さんを視界の端に入れながら、上生菓子がのせられた皿を手に取る。
たぶん、これも学生たちの作った皿。まだ粗さの残る出来上がり。それでも、数を重ねると、どんどん綺麗になっていくのを小さい時から横で見ていた。
そうか。
最初は粗くてもいいのか。
時間を重ねて、少しずつ整えていけるようになればいい。この「旅人」さんへの感情は、きっと一生ものだから。それだけは、確信がある。
だから。
「……いただいたお菓子。このお菓子はここで食べるので、同じものは妹に譲って、残りの2つの方を家で食べますね」
ぎこちなくても、全然思い通りに自分が動けてなくても、それでいい。土に向き合い続けたおじいちゃんたちのように、真摯にわたしはこの人と向き合いたい。
言葉で繋がった人だから、対話をして理解を深めていきたい。
顔を上げて、「旅人」さんの目をみつめる。
黙ったわたしに気がついたのか、視線を合わせてくる「旅人」さん。
思わず、笑みが浮かぶ。
ふと、アクリル板のパーテーションに気づいて、マスクを外してもう一度目を合わせる。
「お菓子、ありがとうございます。とても、嬉しいです」
目元だけじゃなくて、ちゃんと笑った口元を見せたくて。
それと。
なんだか困ったような顔をしている「旅人」さんが可愛いと思ってしまったから。
作品や感想の言葉でもなく、電話の声でもない、目の前にいるこの人に微笑みかけたくなったから。
ーーー好きだなぁ。
しみじみとそう思った。
「お茶の作法とか分からないけど…」
おずおずと「旅人」さんが抹茶碗を持つ。
「わたしもお茶の作法は全然分かりませんよ。とりあえず、美味しくいただけばいいと思いますよ。あれ?前に来たんですよね?」
「……ぐっ…。うん、食べて美味しかったから買おうと思って」
「じゃあ、今度は次のお菓子が出たら来ませんか?」
「……うん。その時は美術館も見てみたいな」
少し緊張した感じはあるけれど、とりとめのない会話を続ける。ずっと小説投稿サイトを経由した言葉のやりとりをしていたけれど、まだまだわたしと「旅人」さんには、顔を合わせて会話に慣れる時間が足りていない。でも、これから積み重ねていけば。
なんでもいい。
とにかく、「旅人」さんに聞いてみて、答えが返ってくるなら、それは大丈夫。だって、感想を送ってからずっと言葉のやりとりを積み重ねてきたから。
言葉を信じている者同士だから。
「旅人」さんの言葉は、わたしに対してずっと真摯だったから、信じられる。
初めて会ったけれど、ちゃんと4年の積み重ねがあるから。きっと大丈夫。
だから。
焦らないで、ゆっくりと。
あなたと会って、あなたの顔を見て、あなたの息を感じて、あなたと馴染んでいきたい。
綺麗に作り上げられた鶯色の上生菓子に、菓子切りを優しく刺して、切り取る。
切り取った菓子は、柔らかい甘さで、するりと「旅人」さんの言葉のようにわたしの中に染み込んだ。
なめらかで、甘くて、優しい。
わたしの中の「旅人」さんのようだ。
思わず、笑みがこぼれた。
そのほんわかした気持ちに、後押しをされて、わたしは言おうかどうしようか迷っていたことを、口にすることにした。
・・・
「……それで、もしよければ、なんですけど」
お菓子もお茶も終わりに近づいた頃、そわそわしながら、「旅人」さんに言ってみることにした。
頭の中で社長の『ヘタレと奥ゆかしいは別なのよ!ここぞという時、ちゃんと言うべき事は言うものなの!』というありがたいお言葉がぐるぐると回っている。社長、わたし、頑張ります!!
「ん?何?」
柔らかく微笑む「旅人」さんに、勇気を出して、言ってみる。
「その、誕生日のお祝いを、贈ってもいいですか?」
「え、オレ、誕生日言ったことあったっけ?」
びっくりしたように、手に持って眺めていた抹茶碗をトレーの上に戻した「旅人」さん。
ですよね。びっくりしますよね。でも。
「……新田春人、さんですよね。名前。だから、春生まれかなと思って」
「旅人」さんに物を贈りたい欲と、また会いたい欲と。欲望にまみれたわたしの出した推理が、次の約束をとりつけようともがいた結果出た答えだ。……びっくりしますよね。ですよね。
この推理が間違っていたら、この上なく恥ずかしいことを承知で、ドキドキしながら言ってみると、「旅人」さんはパーテーション越しに顔を覆って崩れた。
「……ちょっと待って。急に名前呼ばれると、なんか照れる」
「………え」
「臼井初音さん、って呼んでいいのかな?」
「……あ、はい。どうぞ」
「……どうも」
「……あの、なんか、その…本名呼ばれると恥ずかしいですね」
「……だよね」
「はい……」
マスクを外したまま、アクリル板越しでも目を合わせられなかった。たぶん、お互いに顔が赤いと思う。手で隠しきれてないから、バレてると思うけど。
顔が赤いまま、春人さんが体を起こしてから、目を合わせて答えた。
「……はい。誕生日はもうすぐです」
「……お祝いしたいので、また会いませんか?」
「……はい、お願いします」
そこが限界で、お互いに目を逸らした。
……店員さん、こっち見てますよね。あ、目が合った。はい、お水ください。
爽やかに店員さんがレモンの浮かんだピッチャーを持ってきてくれるまで、わたしは空になった器を不自然なほど見つめ続けた。
次回、最終話です。