『今年こそチョコレート欲しいですね』(後編)
正月の休み明け、仕事が始まって最初の休日の昼。
のんびりと熊の絵付けのされたマグカップでコーヒーを飲みながら、コンビニで買ったケーキを食べていた。少しでも気持ちがほぐれるように、ゆっくりと味わった。
口元に無理やり笑みを浮かべ、自分を励ましながら、パソコンの前に移動した。そして、小説投稿サイトの自分のホーム画面を開いた。
ーーーもうポイントが0ばかりでも清々しくていいじゃないか。
意味のない強がりで、パソコンを操作する。
それなのに、画面に出たポイントの数字は『12』。
ポイントの他にブックマークが1つ、ついていた。
もうひとつの小説も、ポイントが0ではなくなっていた。
たったそれだけのことなのに、嬉しくて嬉しくて、オレはぐるぐると部屋の中を歩き回った。それだけでは物足りなくなって、「そうだ。奮発してお祝いにケーキを買おう!」とわざとらしい独り言を大きな声で言った。徒歩で1時間かかる有名菓子店に向かうべく、財布を持ってコートを着た。
そして、オレは湧き上がる喜びを噛みしめながら、まだまだ寒いままの正月気分も残っていない街へと、うきうきと歩きに出かけた。
もう、じっとしていられなかった。
それくらいに、奇跡的で嬉しいことだった。
*
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画面で初めて、赤い文字を見たのは春先だった。
あれは閉店間際のスーパーからの帰り道に、梅の香りに気付いた夜だった。
暗闇から漂う花の香は、いつも鼻を刺激する下水溝からの匂いを押しのけるようにしてオレの中に入った。
和歌に読まれる梅の香の意味をこの時ようやく分かったように思った。
見えなくても確かにそこに花はあった。
急に春めいた浮かれた気持ちになり、帰ってすぐにパソコンを起動させた。
紅茶を淹れるための電気ケトルのこぽこぽと沸騰する音を聞きながら、オレは画面を凝視して固まった。
あやうく熊の絵付けのされたマグカップを落としそうになった。
『感想が書かれました』
なんだかわからないままに、赤い文字をクリックする。
画面が変わって、見たことのないページに。
『拝読させていただきました。
日常のささやかな一場面なのに、心に響きました。
素敵な作品をありがとうございました。』
たった3行の感想。
それでも今までで一番嬉しい3行の言葉。
書いた人は、「しらすあなご」さん。
オレは紅茶を淹れて、大きめのティーポット全てを飲み終わるまで、ずっとその画面を見つめ続けた。
カーテンも閉め切った、いつも通りの一人の部屋。それなのに、ひとりではないような不思議な感覚だった。
この時は何も分からなくて、感想の返信をしないという無礼をしていた。寝る前に「しらすあなご」さんの作品を読んで、感想には返信をするものなのだと気がついて慌てて返信をしようとしたが、何を打ち込んでも違うような気がして、結局は翌日の夜になってしまったのは苦い思い出だ。
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あれから4年。
今では固定の読み手の方もついて、投稿のたびに感想を貰えるようになった。
同じユーザー同士でのやり取りも始まって、暗闇でひとりだけのボートでさまよっている寂寥感もなかった。
会社でも1年後輩で入ったヤツと妙に馬が合った。会社でのどうでもいい愚痴や笑い話を飲み屋に行っては、だらだらと言い合ったりしている。
その時に、小説投稿サイトに投稿しているオレの作品の感想を聞いてみるくらいには、気の置けない間柄になっている。
それでも時々、投稿サイトでのポイントが伸びなくて悩んだり、悔しがったりしている。
何が好きなのかなんて、読む人がひとりひとり違うから、闇雲に正体の分からない何かに焦るよりは、少しでも読みやすい文章力を培った方がいいと頑張って切り替えるようにしているが。
だからこそ、特別な思いで書いた作品に感想を貰えると、ついつい喜びすぎてしまう。
喜びすぎて、帰宅した後に開いたパソコンの画面で、つい調子に乗ってしまった。
それは感想を書いてくれたのが、予想通りの「しらすあなご」さんで、作中のチョコレートを渡す女の子と受け取る男の子の描写が可愛らしいとあったからだ。
つい、『今年こそチョコレート欲しいですね』と書いてしまった。
テレビを見ながら夕飯を食べて、シャワーを浴びてベッドの上でぼんやりしてから、急に気がついた。
チョコレート欲しいですって、催促しているみたいじゃないのか?
やばいやばい、なんか恥ずかしい。
まるで「しらすあなご」さんならオレにくれるんじゃないかと期待しているみたいだ。
慌ててパソコンを起動させてサイトを開くと。
そこには赤い文字でメッセージの通知。
まさかと思いながら、メッセージを開くと。
『チョコレートを送りたいので、よければ住所を教えてくれませんか?』
「しらすあなご」さんからのメッセージだった。
本名も顔も何も知らないのに、女性だということだけは分かっている。
アニメの話題や漫画の感想のやり取りで何となく年齢も分かっている。
たぶん、おれより少しだけ年下。
一気に顔に血が集まる感触を覚えた。
顔も知らない相手に恋心を抱いていると自覚した瞬間は、どうにも上手く描写できない。
いい歳した社会人のはずなのに、何も手がつかなくなり、部屋をうろつけるだけうろつくと、シャワーを浴びた後だというのにコートとマフラーと手袋をつかんで外に出掛けた。
冬の真夜中の街に。
赤い信号に捕まるまで、ずっと早足で歩き続けた。一瞬、横断歩道で我にかえるが、また「しらすあなご」さんからのチョコレート送付のメッセージを思い出して、力一杯歩き出す。
いや、そもそも彼氏いるかも。
いや、独身かどうかわからないし。
それに、そういう意味じゃなくて、友だちとしてのチョコレートだろうし。
でも、バレンタインの話だったし。
その流れでのチョコレートの話だったし。
いや。
でも。
喜びと期待と理性と過剰な願望と、今までの世知辛い勘違いの経験と、次々と膨らむ都合の良いハッピーエンドの妄想が折り合いを見せないままに、どんどんと夜は深まっていった。
オレはひたすらに歩き続けた。
寒さで顔を真っ赤にさせながら。
うん、これはきっと寒さのせいだ。
そうに違いない。