燕空旅人 『こんにちは。はじめまして』
待ち合わせの時間まであと23分。
ちょっと早いけれど、もう店を出ようか。
腕時計を見ては、窓の外に視線を向ける。
立木に彩りをつけるサザンカ。
その向こうは曇り空。
雨は、降らない。
今オレは、下見に来た時に見つけた喫茶店の「千種庵」で、のんびりとお茶を飲んでいる。
表面上は。
内面では席についた時から、ずっとそわそわしっ放しだ。
ホワイトデーのお返しは、この店のお菓子にしようと決めていた。そして無事に購入できた。
ただ、購入したお菓子のすべてを食べてはいなかったので、念のためにと、その内の1つを注文してお茶を飲んでいる。
美味しかった。
普段食べていないお菓子ではあるが、これならば「しらすあなご」さんに気に入ってもらえると自信を持って言える。
あとは、どのタイミングで渡すべきか。
会ってすぐでは荷物になる。
帰り際にスマートに渡したいが、人が行き来している中で渡せるのだろうか。そこまで自分の器用さを盲信することは出来ない。
ーーーそれなら、会場を出た後に、お茶に誘うのはどうだろう?
お互いにテーブルについて、ゆったりと落ち着ければ会話の最後に渡せる。
それならすぐにでもスマートフォンでメッセージを送って、喫茶店に寄れるかどうか訊いてみようと閃いたが、この時間ならばもう電車に乗っていて移動中では?むしろすぐに会うのに、直前に予定を訊いてくるのはダメなのでは?と思いとどまっている。
あまり早く待ち合わせ場所に到着してしまっても、どうしていいか分からない。
それに着いてからスマートフォンに電話をすることになっているから、服装も何も知らない。うろうろしていてもオレには誰が「しらすあなご」さんなのか分からない。
もう一度、腕時計に目を向ける。
もう20分前ならいいだろう。
ここからゆっくり歩けば5分くらい。
どうせもう全部食べ終わっているし、落ち着かないし。
15分前から待ち合わせ場所でうろうろする覚悟を決めると、お願いしていたホワイトデーのお返し用のお菓子の入った包みを店員さんから受け取り、店を出た。
小さな喫茶店と思って入ったここは、日本画の美術館に併設された喫茶スペースだった。今度は「しらすあなご」さんと一緒に日本画を見るのもいいなと思った。
まだ最初のデ……お出かけもしていないけれど。
妄想なのかイメージトレーニングなのか。
「しらすあなご」さんと出かけたい場所が少しずつ増えていく。
別に1人でも行ける場所でも、「しらすあなご」さんと一緒ならもっと楽しいだろうなと思ってしまう。まだ一度も会っていないのに。なんだか欲深くなっている。
黒いコートにショルダーバックをたすきに掛けて、新しいスニーカーで坂道を下る。
もう少しであのビルの前だ。
着いたら黒いコートを着ているとメッセージで送ろう。
そう思ってビルの入り口に着くと、ベージュのコートを着た黒髪の女性が坂道を上って来た。
少し細身の色白の子。
すっきりした首周りに、少し丈の短いパンツ姿。
真面目そうな、清潔感のある子。
ーーーもしかして。
なんの根拠もないけれど、オレはすぐに「しらすあなご」さんだと思った。
理由を強いて述べるなら。
なんとなく好きなタイプの子だな、と思ったから。
坂道を上るその人は、まだオレに気付いてはいない。
そっとビルの入り口から壁際へ移動して、スマートフォンを取り出す。そして、発信する。
「しらすあなご」さんの電話へ。
何回目かのコールで、ビルの入り口近くまで来たその人は、慌てた様子でポケットからスマートフォンを取り出して、ちょっとだけ固まった。そして、ゆっくりと画面をタップして耳に当てた。
電話が繋がる。
『「も、もしもし?」』
耳に当てた所と、目の前3メートルの所からハウリングするように同じ声が聞こえた。
オレは真っ直ぐその人を見つめながら、電話口だけでなく、目の前にいる人に聞こえるように声を出した。
「もしもし。こんにちは。『たびと』です」
弾かれたように顔を上げるその人は。
マスクの上に覗いている綺麗な目を大きく開いて、オレを見つめた。
オレは軽く頭を下げる。オレだと、分かるように。
「しらす」さんは、びっくりしたまま固まっていたが、オレの前を人が通り過ぎるのを見て思い出したように道の端に寄った。
そして、オレと同じビルの壁際に移動してから少し距離を取ったまま、マスクを外した。
「こんにちは。『しらすあなご』です」
耳元から聞こえる「しらす」さんの声。
そして、緊張したような顔で真っ直ぐにオレを見てくる「しらす」さん。
思考も感情も止まって、「しらす」さんを見つめた。
何かが、すとんと胸元から体の中に落ちた。
ぺこり、と「しらす」さんが頭を下げて、ようやくオレは自分もマスクを外すことに頭が回り、慌てて耳元に指を掛けた。
マスクを外し、スマートフォンを耳に当て直して、「こんにちは。はじめまして」と、壊れた人形のようにぎこちなく、口元の筋肉を動かした。
「しらす」さんが、はにかんだように笑った。
急に心臓の辺りが騒がしくなった。
手のひらが、じんわりと汗をかき始めた。
なんだこれ。
手の汗が気になって、握りしめるとマスクが潰れた。
オレは思い出したようにマスクをつけると、スマートフォンをコートのポケットにしまい、「しらすあなご」さんに近付いた。
手を伸ばしても触れられない距離のある内に、「しらす」さんはマスクをつけ直すと、同じようにスマートフォンをコートのポケットにしまった。
「同じくらいに着きましたね」
マスクの上の目が笑っている。
オレは見えないマスクの下で、唇をぎゅっと噛んだ。この人、かわいいなと思ったので、口元に力を入れた。
「少し早かったかなと思ったのですが。ちょうどでしたね」
「はい」
ふふふとマスクの中で「しらす」さんが笑う。
正直、自分の表情を「しらすあなご」さんのために取り繕う余裕は無かった。ただひたすらに、マスクの中で唇を噛んでにやけてしまわないように耐えた。なんだか分からない。ただ会えて嬉しい気持ちが湧いてくる。
「ちょっと早いけれど、行きましょうか」
目元に笑みが浮かんで見えるようにして、「しらすあなご」さんに声を掛ける。その時、向かう先のガラス戸に反射して見えたのは、2人の男女の姿。
それは黒のコートにベージュのパンツを履いたオレと、ベージュのコートを着た黒のパンツ姿の「しらす」さんで、お互いに色を合わせてきたカップルのように見えた。
ここ最近の服の相談会で、ざっくりと色の合わせ方について店員さんから聞いていたオレは、普段なら気が付かないままで終わっていたことに気付き、激しく動揺した。そして、ガラス戸にぶつかった。
「いったぁ!」
痛みよりも「しらす」さんの前で早速醜態を晒してしまったことが気になった。急いで「しらす」さんの方を見ると、曇りなき瞳でオレを心配そうに見ていた。
「だ、大丈夫ですか?」
「ああ、うん。大丈夫。赤くなってるだけで額は切れてませんよね」
前髪をよけて額を見せると、「しらす」さんが首を縦に振った。
「前髪で隠れてますから、大丈夫です」
「……でも痛そうですよ」
「大丈夫です。大丈夫です。さあ、行きましょう」
内心はやっちまったぞ!と大暴れをしているが、それを表すことすらもう無理だ。
ちょっとでもカッコつけたい。
オレはスマートに扉を押して、「しらす」さんへ先に入るよう促した。
「旅人」が無自覚に一目惚れしていて、びっくりしました。( ;´Д`)




