しらすあなご 『……いってきます』
「いってらっしゃぁい」
気の抜けるような妹の声に背を押されて、3月の日曜に出かける。
「遅くなる時は早めに連絡してねー。夕飯の都合があるから」
「分かってるー」
マスクをつけながら、部屋の中を振り返れば、にやにやとした妹の顔。
「………何よ」
「ちゃんとお姉ちゃんらしく可愛い服になってるから、大丈夫だよ」
「……いってきます」
わたしの方が姉のはずなのに、まるで母親に送り出された気分だった。
寒すぎないお昼の時間帯に、髪をそっと撫でて確かめながら歩く。そんなに難しいものではないのだけれど、自分だけで戻せる自信はない。
朝から大変だった。
「あんまり気合い入れてもダメだよ。ちゃんとお姉ちゃんが自分で出来る範囲で頑張って」
「……でも、編み込みなんて一人で出来ない……腕が攣りそう……」
「何度もやれば簡単になるから。とりあえず、じゃあこの動画見て。はい」
「……ううう……早い。戻して」
「はいはい」
会社の同じチームのお姉さんたちの髪がいつも綺麗なのは、こんな努力の賜物なのかと身をもって知った。
お姉さんたちは毎朝ヘアアイロンをしてから、アレンジしてるんだよね。ヘアアイロンだけでも慣れていないからすごく時間がかかった。絶対に毎日なんてわたしには無理だ。簡単にヘアゴムかバレッタしかやってない。
ーーーこんなガサツな女、「旅人」さんは嫌だろうなぁ……。
編み込みが出来上がって、妹にチェックしてもらう間、ひとりしょんぼりと肩を落とした。
そのしょんぼりとした肩を妹に叩かれて、曇り空の下、駅に向かって歩いた。
緊張とわくわくとそわそわと。
たくさんの感覚が入り混じって、マスクの下は真顔になっている。会ったらちゃんと笑うから、今は表情筋を休ませておいて欲しい。代わりに頭の中はわちゃわちゃしている。
4年も交流を続けていた「燕空旅人」さんと、初めて会う。
「待ち合わせは会場前……」
慣れない路線の電車で向かう。その間もずっと楽しみな気持ちと、がっかりされないかなという気持ちがひゅんひゅんと行き来していた。
吊り革につかまって、目の前のガラスにうっすらと映るわたしは、特に目立って可愛くもなく、きれいでもない。化粧もいつもよりは多く使ったけれど、ナチュラルメイクの範囲。
編み込みでハーフアップにした髪は黒髪。
春用のベージュのコートに春色のシャツ。防寒と色合わせのため、実家近くに住むおばさまお手製のふんわりニットカーディガンを着て、足首を出した黒いパンツ姿。
全然、普通だ。
デートに浮かれている感じではない。友だちとお出かけの範囲内だ。
せめて髪色を変えて、ゆるふわヘアにでもすれば少しは違ったのかもしれない。そう思って、会社のお姉さんたちに相談してみると、
「やめて。せっかくの綺麗な黒髪を男ごときのために染めないで」
と、両肩を抑えられて止められてしまった。正直ちょっと怖かった。
妹にも、
「そこまでイメチェンしようとするのは逆にひく」
と冷たい目で言われた。
ーーー4年も、文字だけの交流をしているからなぁ。
文字だけの交流をしている分、中身がバレてしまっている感覚はある。見た目から入る現実世界での交流と違って、二言三言のやり取りから始まる小説投稿サイトでの交流は、妄想垂れ流しの作品をお互いに読むせいか中身での繋がりになる。
たぶん、年齢が近いと共感しやすいことが多いのだろうけれど、感覚や趣味が近いと年齢も何も関係なく交流が始まる。
実際、ほとんどの人は、年齢も性別も分からないままでずっと交流している。
「燕空旅人」さんは、個人的なやり取りでなんとなく分かっていたけれど、年齢も感覚も趣味も近い。陶芸に興味を持ってくれる同年代の人は、自分で作陶している人以外でわたしは知らない。
それに、他の人の小説にはあまり見当たらない、わたしが拾えていても言語化できていない感覚をさらっと書いてくれる。そういう文章のところを見つけると、とても嬉しくなって感想を書いてしまう。
ファンタジー小説ばかりを書いているわたしには、書けそうもない現実世界のささやかな日常を、薄紙を剥がすように繊細で綺麗に写しとってくれる。派手さはないけれど、わたしはとても好きな描写のある作品ばかりだ。
そういえば、この間の短編はちょっと面白かったな。
マスクの中でくすりと笑ってしまう。
いつもの作品と違ってコメディ色が強かった。色々なジャンルに挑戦していてすごいなぁと思う。
わたしは短編が苦手で、中編くらいのファンタジーを書いてばかりいる。最初のうちは友人の好みに合わせた恋愛ファンタジーを書いていたけれど、今は恋愛色の薄い話ばかりだ。
そういえば、連載中の作品に登場している風の精はどうしようか。
活動報告のコメントで、みんなには好きな声優さんだと指摘されていたけれど、実際は「旅人」さんからの電話の影響で書いてしまったと気付いてしまったし。
イケメンにしてしまえばいいんだろうけれど、なんだかちょっと胸がもやもやしてしまうから、風の精は未だに声と葉っぱの手紙でのやり取りだけしか書けていない。
なんとなく、マスクが息苦しい。
少しマスクの位置を直して、思った。
「……顔、全部見えないよね」
マスクをとれないから目元のメイクを中心にしたけれど、外しても大丈夫なように日頃のリップケアからちゃんとしてきた。
「化粧が落ちてしまう前に、見てもらえないかな……」
それに、「旅人」さんの顔もちゃんと見てみたい。
ゆらゆらと電車に揺られながら、そんなことを思った。
駅に着いて、改札口を通り抜ける。
スマートフォンをコートのポケットにしまう。
両手を空けておくために、今日はリュックスタイルだ。
それも展示されている陶芸作品を破損しないための気遣い。手が空けば繋ぐかもとか、そんなことは想定していない。
していないったら、していない。
なんとなく、気になってリュックからハンドクリームを取り出して、手にすり込む。
ただの身だしなみだ。
ちょっといい香りがするのは、自分のため。
何も妄想も期待もしていない。
うん。
そわそわとした気持ちで腕時計を見れば、午後1時30分。
ここから会場のあるビルまでは、地図アプリで見ると10分。
迷うかもしれないし、と駅から出発する。
前に別の展示会で行っているから、迷うわけがない。
でも、時間を潰そうと思っても落ち着かない。
だから、もう行ってしまおう。
あと少しで、「燕空旅人」さんに会う。
顔がゆるみそうなのに、体は緊張感を抱えて坂道をのぼり始める。
心臓がうるさい。
きっと、上り坂のせいだ。
落ち着いて。
落ち着いて。
わくわくとドキドキがわたしの背中を押す。
早く。
でも時間に合わせてゆっくりと。
フラットな靴でわたしは歩き続けた。




