燕空旅人 「人の問ふまで」
知らない内にケーキ屋に向かって歩いていた。
だいたい片道1時間の長考散歩コースを知らない内に選んでいたようだ。
コンビニでホットコーヒーを買って、飲まずに片手に持ってそのままぶらぶらと歩く。ケーキ屋で何を買おうかなぁと思いながら、頭の中にはホワイトデーのお返しがずっと残っていた。
ケーキは生菓子だから、宅配便より直接の方がいい。何が好きかは分からないから、選んで貰って。ケーキバイキングみたいな所の方がいいのかな。
信号で足が止まる。
周りの人も少ないので、少し飲みやすい温度になったコーヒーを口に運ぶ。マスクをずらしてひと口飲む。
ほうっと息を吐いた。
ーーーケーキバイキング、行ったことはないけど、「しらすあなご」さんと行ったら楽しそうだな。
青信号に変わったので、そのまま歩き出す。
てくてくと歩きながら、一緒に出掛けたいと思っていることにオレは全く気がついていなかった。
雪のない街の中をのんびり歩き続けた。
ケーキ屋でニューヨークチーズケーキを選び、ついでに焼き菓子もいくつか選んだ。
「しらすあなご」さんに渡すホワイトデーのお菓子に何がいいか、探してみようと思ったからだった。
レジの所で支払いをして、小さな紙袋を受け取る。そのまま店から出ようとして、扉近くのテーブルに気がついた。ショップカードがいくつもあり、地域のフリーペーパーもあった。
いつもなら手にとることはないそれらをオレは一つずつ取って紙袋に入れた。もしかしたら、「しらすあなご」さんが好きそうなお店があるかもしれないと思ったからだ。
女の人が喜ぶお店をオレはよく知らない。
ネットで探しても場所がバラバラで全部を見て回るのは無理そうだった。それに食べたことのない物を渡して、「しらすあなご」さんが美味しいといいなと望むことも出来ない。
仕事ならだいたい美味しそうなものでいいやと思えるのに。
そこでふと気がついた。
あのチョコレートは美味しいチョコレートだった。もしかして、「しらすあなご」さんも食べて選んだのだろうか。その中で美味しいと思えるものを贈ってくれたのだろうか。
「………うぅ」
うめき声が出る。広い歩道の所でよかった。誰にも聞こえていない、はず。
なんだそれ。もしかしてと想像しただけで口元がゆるむし、胸がいっぱいになって苦しい。存在を忘れかけていたマフラーを鼻先まで持ち上げる。
マスクで表情なんて通りすがりの人には、見えはしないのに。
なんとなく顔を隠したくなった。知らない内にまたため息が出る。
ケーキが壊れないように気をつけながら、急いで自宅アパートに向かった。
テトラパック型の紅茶のティーバッグを入れて、マグカップにお湯を注ぐ。ニューヨークチーズケーキを南蛮焼の皿にのせて、ティーバッグを豆皿に取り除ける。
ふんわりと湯気が漂う。
ひと口、紅茶を飲み、チーズケーキに横にしたフォークを差しこむ。しっとりしたチーズケーキが口の中でほんのり甘さを広がる。
うまい。
それほど多くはないけれど、陶芸作家の皿をいくつか持っている。古道具屋で購入した熊の絵付けのされたマグカップ以外は、作家の展示会で直接買ったものばかりだ。万単位のものは買えないが、なんとなくでは買わないようにしている。本当に欲しいと思う物だけをちゃんと使って部屋に置きたいから。
それは、熊のマグカップの存在が大きいのだろうなと思っている。
陶芸品に興味の無かったオレが、心惹かれた熊のマグカップは素人目に見てもいい品だと分かる。そのマグカップと合わせて使うとしたら、中途半端な物は違和感が拭えない。
古道具屋で購入した後、いつも通りに大学入学時から使っていた百均の皿にコンビニケーキをのせた。その皿を熊のマグカップの隣に置いた途端、机の上が白々しいものになった。
じわっとケーキの美味しさが減ったように思えた。味は変わらないはずなのに。
その違和感の正体が分からない時に、海外も含めた各地の陶芸作家の作品を展示販売している小さなギャラリーに出会った。ふらふらと誘蛾灯に近づく虫のようにギャラリーに吸い寄せられ、目にした陶芸作品を見て分かった。
ーーーああ、熊の仲間たちはここにいたのか。
成人男性が何を言っているのかと思われそうだが、本当にそう思ったのだ。
そこで熊の隣に来てもしっくりくるケーキ皿と豆皿を買った。正直、社会人1年目には高い買い物だった。ゲームソフトが買えるなと思った金額だった。
けれど、あの時買っておいて良かったなと今なら思う。熊のマグカップとぴったりと合うし、同じ陶芸作家でもその後には少し違うデザインの皿になっていたから。その皿はそれで良い作品だと素人目のオレは思うけど、ちょっと熊のマグカップには合わない。
ただのオレの好みの問題だが、なんとなくそう思った。
その皿も年数を経て素焼きの肌がまろみを感じさせるようになってきた。高いけれど、大事に扱って、丁寧に育てていくのは楽しい。
それを後輩に呑み屋で言ったら、
「先輩らしいですねぇ。なんてゆーか、愛が重い」
と一刀両断された。
当時、後輩が彼女にプロポーズして成功した惚気話ばかりを聞かされていた。結婚を決めることができた男に「愛が重い」と言われて、オレが独身なのはこういう所に理由があるのかなと地味に落ち込んだ記憶がある。




