『今年こそチョコレート欲しいですね』(前編)
こちらは、藤乃 澄乃様主催の『バレンタイン恋彩企画』参加作品です。
全6話、毎日17:00と18:00に投稿予定です。
小さな画面に光る赤文字。
それは、暗闇の中の小さな灯台。
小さな赤い光は、いつの間にか愛しい存在になっていた。
***
冬の乾燥した風が地下鉄の到着を知らせる。
車両に乗り込むまでのわずかな時間に確認した画面の小さな文字に、ほんの少し心が躍る。
『感想が書かれました』
それだけを見て、コートの内ポケットにスマートフォンをしまう。
バレンタイン企画に投稿した新作を読んでくれたのかな?
きっと「しらすあなご」さんだ。
オレは感想をもらったことだけを材料にして、ほんの少し、ほんわかとした気持ちになって吊り革につかまる。
一日分の革靴の不快さも、マスク越しでも咳ひとつ出来ない気疲れのじんわりとしたダメージも、今なら耐えられる。
ゆらりゆらりと、車両が揺れて止まると進むを繰り返す。
見慣れた車内広告と、景色らしい色もないガラスの外。
新しいことは何もない。
地下の真っ暗な道をレールに沿って進んでいる。先も見えないし、ここがどこなのか、正確な位置も掴んでいない。
それなのに、進んでいる感覚があるから、誰も迷った顔をしていない。よく考えたら、車輌の中にいるだけで安心しているだけだ。
真っ暗な地下でも進む方向へ光を伴って走っているだけ。事故や事件があって初めてその頼りきった安心感に気づくのではないかと、東京に住み始めた頃に不安と共に考えていた。
たくさんの知らない人の中で、オレは何の安心感を抱えていられるのだろうか。
今思えば、慣れない環境に馴染めなくてしょんぼりしていただけだと分かる。
それでもやっぱりその不安感は消えなかった。
学生から社会人への切り替わりはうまく出来ていたと思う。ただ、胸に抱えた感情や本音を友達にすべて出していた頃と違って、ひとりで抱え込むことが増えていった。
友達に話すためには、働いている会社の状況や仕組み、人間関係を分かってもらわなければならない。それを話すのも嫌だったし、まだ馴染めない同じ会社の同期たちに愚痴に近いことを言ってしまう勇気もなかった。
だから、小説をひとりで書き始めていた。誰に読ませるわけでもなく、ただ何かで本音を吐き出さないとどうしていいのか分からなかったのだと思う。
ずっと本を読むことは好きだった。あとは、旅。学生の頃は、安い切符でのんびりと鉄道であちこちの友達の帰省先に遊びに行ったりしていた。
その旅先で出会った焼き物も好きになった。
それがオレの好きなもの。
その好きなものと好きなものを合わせて、ぼんやりと空想をしていたら、ひとつの物語として書いてみようかと思った。
いつも使っているお気に入りの陶器のマグカップに描かれた熊の絵。
その陶芸家の晩年の姿。
そして、森に囲まれた田舎に行ってしまいたいという逃避願望。
それを全部混ぜ合わせたら、物語が出来た。寝る前の日課として、少しずつパソコンで書いていった。
誰にも見せるつもりもなかった。
だから、その頃のオレには想像もつかなかった。
『感想が書かれました』
無機質な画面のたった一文が簡単にオレを舞い上がらせることを。
*
*
*
画面の文字を思い出して、マスクの中でオレはちょっとだけ微笑んでしまった。
目元の表情が出ないように、目をつぶる。
どんな感想かな。
気に入ってくれたかな。
知らないことを強みにして、オレは想像する。
その想像の力が、あと少しの帰り道を奮い立たせてくれるから。
小さな赤い光の強さを冬の空気と一緒に噛みしめた。
地下鉄からまた乗り換えて、ようやく自宅最寄り駅に着くと、当然青空も夕暮れもなくて、星も見えない夜の曇り空。
それなのに寒さは空から降ってくる。
その寒さが体の中に染み込んでしまう前に、オレはたくさんの人の中で歩みを早め、自宅アパートに向かう。
歩いて考えることは、小説のこと。
冬の空気を耳で切り裂きながら、どんどん進む。
*
*
ウェブ小説のサイトに、誰かに読ませるつもりも無かった小説を投稿し始めたのは、年末の休みに入った初日。
小説投稿サイトの存在を知ったからだった。
本当に何となくだった。
何の期待も野望もなかった。
それなのに、投稿し始めた途端、全然誰も読んでくれないことで落ち込み始めた。
真っ暗な湖に何の準備もなく、ひとりで手漕ぎボートに乗ってしまったような心細さだった。
ランキングを見ると、決まった名前があって、どうしてオレは誰にも読まれないのに、この人たちはちゃんと船で前に進んでいるんだろうって思った。
本当にどこかに読み手はいるんだろうか。
閲覧数はすべて機械が不適切な単語がないか検索するためにサイトをひらいた数なのではないだろうか。人間は誰もオレの作品を見ていないのではないだろうか。本気で考えていた。
そのくせ、暇になると何度も確認してしまう。
それでもポイントは正月になっても0。
年末進行の疲れと、仕事のミスで叱られたダメージが重なって、胃が痛くなった。
それでもまた、書いてあった作品を投稿をした。
熊のマグカップを勧めてきた古道具屋と、そこの客との他愛のないやりとり。
日常を描写したささやかな掌編。
誰にも届かないのに。
性懲りも無く書いて、投稿した。
それはまるで、誰もいない河原で空に向かって呟く告白のように、なんの意味もないのかもしれない。
それでもオレの書いた小説をほんの少しだけ、外の世界に出してやりたかった。
慣れない環境に馴染むために、必死に自分の言葉を捻り出して作り出した言葉の作品を。
両足を伸ばしてお茶を飲んでいるような、マグカップに絵付けされた熊は、自分をモチーフに書かれた小説になど興味がないように変わりなくオレの机の上にいた。
オレはそのマグカップでコーヒーを飲みながら、自分の好きを詰め込んだものが誰にも認められない悲しさを呑み込んでいた。
誰か、読んで。
ひとりじゃないんだと、教えて欲しかった。
そして、空想で生まれた物語をオレの小さな頭の中だけじゃない場所に置いてやりたかった。
オレの小さな分身を。
オレの小さな好きの気持ちを込めたものを。
本音だけで作ったオレの物語を誰かに認めて欲しかった。