でっかい青いスープカップ
ほっと一息、な気分なので。
特に身の回りのものにこだわりがあるわけではないが、多用途に使える物が好きだ。
でっかい青いスープカップ。
多分どこかの量販店に行ったときに、何かを買ったついでにかごに入れたのだと思う。
作りはしっかりしているので、百均ではないと思うのだが間違いなくここで買いました、という記憶はあいまいなスープカップ。
かれこれ五年近くは使っていると思う。もしかすればもっと短いかもしれないが、そのあたりもうろ覚えだったりする。
さて、もちろん使い道としてはスープカップという名前なのだ。
スープを作って飲みたいからそれを買った次第である。当然、スープを飲むのに使う。
こじゃれたどこそこのスープ、自家製でこだわりのコトコト煮込んだスープ、などということは一切ない。
個人用の電気ケトルに水道からじゃばじゃばと水を注ぎ、湯沸かしのスイッチをかちんと入れる。
買い置きしてあるフリーズドライや粉のスープの“もと”を放り込む。
フリーズドライのあの四角のやつだとそのまま湯をじゃばじゃばとかけることもあるのだが、たまにちょっと思うことがある。
良くは知らないが恐らく各食品メーカーの方々は、あの形状のものにそのまま湯をかけていただくのがベストオブベストになるように入念なマーケティングをしてらっしゃると思うのだ。
あの具材、ちょっと大きい気がする、と。
あくまでこれは個人的嗜好であることは十分ご承知いただきたいのだが、スープカップに放り込むときにちょっとだけえい、と袋を開封する前に砕いておきたい時がある。
例えばカップラーメンが一番おいしく食べられる、湯を入れて三分待つのは二分半よりも三分半よりも美味いという計算があるのだろうし、カル●スは記載された原液に定量の水を注ぐのが最高なのだろう。
でも、でもだ。
個人の嗜好でちょっと違っていても良いところはあると思う。
だもんで、ちょっと崩してスープを作る。
軽めに崩しているのでベースの素材はその形を保つ。崩した部分は粉っぽくなる。
湯で戻すと全体的に具材が混じる気がする。まあ、気がする、程度の話なのだが。
元が粉のスープの場合はまず湯をちょっと少なめに入れて、スプーンの背で“だま”にならないように丁寧に溶かして、それから残りを注ぎ入れる。
この作業ができるからスープカップが好きだ。
どうしてもマグカップだと粉のスープがきれいに溶けてくれないのだ。
いや、ただ不器用で下手くそなだけなのかもしれないが、最後そこに残る塊はしょぱいだけではなく、溶かしきれなかった無念さと勿体なさを同時に内包している。
それとこんにちはをする回数が減るというのは素晴らしいことだと思う。
まあ、個人的な不器用さについてはここまでにしておく。
スープカップをスープ用に使うのは普通のことで、それ以外にということだと温かい飲み物用に、という形だ。
こちらもマグカップで十分なんじゃないのか、という話なのだがこれはこれで味がある。
正直言えば猫舌なのだ。
マグカップに温かいではなく、熱い飲み物が入っていると飲み頃までにかなりの時間が必要になる。
だが、スープマグだと程よく冷めていくので重宝している次第。
もう一つ言うと表面積が増える分、紅茶とかコーヒーとか香りを楽しむ系の飲み物だと香りが出る表面積が増えるわけで。
鼻を近づけてすぅっ、と吸い込めば顔いっぱいにそれを浴びることもできないではない。
そして何が一番良いかといえば、左手で取っ手を掴み、そこそこ温いくらいになったスープカップの本体部を右手で覆うようにすると、すんごくあったかい。
あのストーブとかエアコン、お風呂とかでも感じられない、陶器ごしのあのじんわりとしたぬくぬくしさ(これが正しい言い方かは知らないけど)。
ぴと、と触れたあの右手の手のひら全体にじんわりと広がる、あの独特なぬくぬくしさ(何か他のピッタリな言い方がある気がするけど)。
あれが好きだ。
これがまた不思議なことに夏場の時でも何となく、触れているだけで落ち着くという。
熱すぎるとダメだし、冷えすぎてもダメというちょうど中間の温度帯。人肌よりは温かく、50度を超えるようだと手のひらを熱さが貫通してくる。
陶器の壁面が薄すぎるとそれもまたダメなのだ。
ベストな厚みのこのスープカップ。これが良い。
ずっと使い続けてみてわかる事もある。
ちょうど12月。身の回りのものを片づけて“ダンシャリダー・ダンシャリダー”と呪文のように言うのもいいけれど。
大切な物。無くしてから振り返るのはきっと、凄く疲れると思う。
多分、その段ボール箱の中に一個くらいはあるんじゃなかろうか?
忙しく生きるのもいいが、一息あったかい飲み物でもいかがなもんだろうか、と思う冬の日でした。