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届く宛てのない手紙  作者: いしい けん
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第17章 西森の憂鬱①

 容赦ない夏の陽射しが照り返し、甲板は熱を帯びる。


 伊一四一潜のデッキに腰掛けて、大盛りのカレーライスを頬張る。カレーライスと言っても米なんてものは殆ど入っておらず、カレー色をしたスープに片栗粉を溶かし、数粒の米が申し訳ない程度に入っているお粗末な代物だった。


 不精髭を生やし、上半身はタンクトップ一枚。彼を知らぬ人が見ればきっと機関室の乗組員、誰もこの潜水艦の艦長だとは思いもしないだろう。

 そんな辻岡に、ひとりの男が近付いて声を掛ける。


「辻岡少将でありますね……西森です。この度の回天出撃、待ち焦がれ万感の思いであります。鰹のタタキにマヨネーズをかけて食う日がやっと訪れた……とでも言いましょうか。どうかこの死に損ないに、最高の死に場所を与えてやって下さい」


「マヨネーズ? 鰹? 何の話やねん」

 西森独特の喩えの意味がわからない辻岡であったが、大して深く考えるでもなく悪気もなく吐いて捨てるように言い放つ。


 西森もそれに返答する訳でもなく一方的に意志を伝えると、そそくさと踵を返し宿舎へと戻って行った。



 その夜、ここ山口県にある小さな島にも恐ろしい噂が舞い込んで来た。


 アメリカは八月六日、広島に世界初の核兵器であるウラン型原子力爆弾を投下した。その最悪とも言われる兵器は、瞬時にして広島の街を壊滅させ、民間人およそ一二万人もの犠牲者を出した。

 まるで悪夢のような日から、三日後の今日……八月九日。

 再度、長崎にプルトニウム型に変更した原子力爆弾を投下した。

 広島の一・七倍の威力とも言われた原爆により、長崎では民間人七万人という罪のない尊い命が失われる事となった。


 アメリカは講和を切望する日本からの打診をことごとく無視し、人類史上最初の核兵器実験の為だけに、多くの民間人が生活する市街地へと原子力爆弾を投下したのだった。


「広島の次は、長崎だって?」

「それはもう、無惨な死に方だってよ」

「もう日本は終わりだ」

「ピカドンとは、アメリカはなんて恐ろしい兵器を作ったんだ」

「大きなキノコ雲の後に、黒い死の雨が降るらしい」

「その雨を浴びた者も、やがて死に至るそうだ」

「広島と長崎には、もう五〇年と草木は生えないらしいぜ」


 大津島の住民や兵士、皆この噂で持ち切りだった。


 辻岡の妻と江美が暮らす呉市は、広島市から距離が少し離れているので原爆の直接的被害は無さそうだったが、心中は穏やかではなかった。


「せめて、せめて娘に一目だけでも会いたい……いや、俺だけやないんや。そうやって、皆んな家族にも会えんと死んでいった。今は俺がしっかりせんと……生きとったら、生きとったら必ず……」


 辻岡は弱気なひとり言を振り払うように、頭に自ら拳で喝を入れる。

「痛い痛いっ! ちょっと強くやり過ぎやな」

 そう言って頭をさする。


 大津島に着いてから晴れる事ない重い気を少しでも紛らわそうと、港までひとりで少し歩く事にした。


 真っ暗な港にポツンと浮かぶ伊一四一潜。今まで数々の戦禍をコイツと仲間たちと潜り抜けてきた。


「おおきにな、ほんま感謝するでぇ」


 そうポツリと潜水艦に話しかける。すると暗闇の中、突然ハッチが開き一閃の光が漏れると中から人が現れる。


「あほっ! びっくりするやないか、潜水艦の神様でも出て来たんかと思ったわ。何をやってんねん、こんな遅い時間に……」


 中から出て来たのは、機関室の小川だった。


「あっ、艦長っ! お疲れ様であります。実は明日の出航を前に、自分たちは万全の整備をしておこうと仲間たちで話し合いまして……我々はこんな事しか出来ませんから……」


「そうか、それはご苦労さんやったな。おおきにな、しっかり頼むで」

「はい、お任せ下さい」


 そう言って小川は小さく敬礼し、ハッチを閉め再び艦内へと姿を消した。



 

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