第16章 伊一四一帰港
――数時間後
「江美ーーーっ!」
そう叫びながら伸ばした、その右手は虚を掴んだ。
自らの大きな叫び声で飛び起きた辻岡は、狭い潜水艦内のパイプで激しく頭をぶつける。
「イタタタタ……なんや夢かいな。ほんまビックリさせんなや、冗談きついで」
頭を押さえながら床に落ちた薄手のシーツを拾い上げ、クルッと丸めて自らの寝床に戻す。
艦長室と言えども潜水艦内のそこはとても狭く、簡易的な机と私物をしまっておける衣装棚、そしてようやく寝返りがうてる程のベッドとは言えない粗末で簡素なものがあるだけだった。
「江美……あいつに、もしもの事があったら」
夢であったとは言え、困惑に満ちたその表情は、普段誰にも見せた事のない別の顔。それは、紛うことなき「親」の顔であった。
事実、辻岡は娘の江美を溺愛して育てた。
軍人の家庭に産まれた一人娘であったが「女は愛嬌」として、辻岡と妻は決して厳しく育てる事なく、優しさと思い遣りを持った女の子にと願い愛情深く育てた。
休暇となれば女の尻を追いかけ回し、朝まで帰って来ないと揶揄されているが、それは辻岡のカモフラージュ。実際、誰にも悟られぬよう車を走らせると、休暇のすべてを江美と家族の為に惜しみなく費やした。そんな父親を、江美もまた心から慕っていた。
ボサボサの髪を手で整え、壁に掛けてあった艦長帽を被ると先程の表情から一転、再び潜水艦長としての顔に戻る。
辻岡は艦長室の扉を開けると、足速に操舵室へと向かう。
「艦長、おはようございます」
そこでは副長の日比野が、昨夜から寝ずに航行の指揮に当たっていた。
「ご苦労さんやったな、先に少しだけ休ませてもろたで」
「はい、大丈夫です。艦は順調に、四国東海沖を航海中であります」
「そうか……近いな」
広げてあった航海図に視線を落とした。
「そういえば艦長、ご家族と呉にお引越しなされたんですよね?」
「おぉ、せやけど任務続きで、一度しか帰ってへんけどな」
背後では通信長の元田とその部下が、何やらコソコソと会話を交わしながら一枚の紙に目を通す。突然、血相を変えた元田がふたりの会話に割って入った。
「艦長っ! 入電であります!」
「どないした?」
「読み上げます! 本日、米軍の航空攻撃により、呉海軍施設ならび軍港停泊中全ての軍艦大破。被害甚大なり」
辻岡の顔色が一変した。
「なに? 全てやと? ほんで市街地はどないなってんねん」
「はい、空襲により死者多数……との報告のみであります」
「くっそぅ……なんや嫌な夢やお思ったら、こういう事かいな。ふたりとも頼むから無事でおってくれよ」
静かに目を閉じ、妻と江美の安否を祈る。
「艦長……」
滅多にない辻岡の不安げな表情を見て、日比野が心配そうに声をかけた。
「克平、大丈夫や。そういや呉には確か、榛名が……」
「はい、今は小用港に。しかし燃料不足の為、言い方は悪いのですが……浮き砲台として停泊させられてます。火器はほぼ取っ払っており心許ない砲撃の火力では、奮戦なさった中井艦長もさぞかし無念だったかと」
「そうか、きっと徹も死んでもうたか……一郎も逝ってしもて、どんどん俺の周りから人がおらんようになる……ツラいのぉ」
辻岡は力を落とし、静かに息を吸い込むと天井を仰ぐ。
「それでも俺らは、日本の未来の為に戦こうてる。何が何でも生き延びて、この日本を守ってかなあかん……そやろ?」
その声は伝声管を通じて、一四一潜内隅々まで行き渡っていた。
日比野に元田、機関室では高木と小川。そして魚雷発射管室では、横井が腕を組んで壁に寄り掛かかりそれを聞いていた。
「あと数時間で作戦指示通り、山口県大津島……回天訓練所へ到着します」
辻岡らに新たに下された作戦、それは西森が搭乗する回天を搭載し、既に攻略された沖縄南方に往航するアメリカ軍船を攻撃し成果を挙げよ、とのものだった。
「なんや大雑把な、この何でもええから一隻でも沈めて来い的な作戦は――」
呆れ顔の辻岡は、航海図の沖縄辺りを鉛筆でグルグルっと囲む。
「もう日本には、冷静に索敵する余力も残ってないんですよ」
「まぁ……そういうこっちゃ。いよいよ覚悟せなあかんかも知らんで」
帝國陸海軍の撤退に次ぐ撤退により、とうとう沖縄にアメリカ軍の上陸を許す事になる。
沖縄本島を本土防衛のための最初の砦として、陸軍は捨石作戦を決行。一日でも本土決戦を遅らせる時間稼ぎとして民間人をも戦闘に巻き込み、女学生までも「ひめゆり学徒隊」として動員させる事となる。
彼我兵力の差は五倍以上、米軍の圧倒的な数の艦砲射撃は沖縄の地形が変わるほど凄まじい攻撃であった。
日本は総力を挙げての徹底抗戦を見せるが、民間人合わせ二〇万人以上もの尊い犠牲者を出し、沖縄は敢え無く陥落する。
帝國海軍も残存艦隊による沖縄特攻を行い、大和などの主力艦を失っていった。
そしてアメリカでは、歴史上最悪の大量殺戮兵器の使用が許可され、その準備が着々と行われていたのだった。




