第15章 呉大空襲②
途中何度も足が絡まり転びそうになる江美を引っ張り起こし励ましながら、ただひたすら……ただひたすら懸命に走った。
燃え狂う火の音、砲撃の音、何かが崩れ落ちる音、人々の泣き叫ぶ声、聞いた事もない人の悲鳴……辺りを取り巻く炎の熱気で、吸い込む息でさえ喉の奥が火傷しそうだった。
電柱からは途切れてぶら下る電線を伝い、火がまるで水のように滴り落ちる。それが地面を這う火と混じり更に高く火柱が上がる。火が火を呑み込みうねりながら大きさを増し、あらゆる道を塞いでいく。
きっと地獄絵図とは、こう言う場所の事を言うのだろう。直美はそう思いながら走った。
通い慣れた商店街は変わり果て、在るべき姿を留めておらず、そこが何処かさえわからなかった。
ふたりがお気に入りの人形店さえも気付かぬまま通り過ぎ、とうとう坂の入口まで辿り着いた。
「この坂を上がれば――」
そう見上げた空に「キュゥゥゥゥン」と甲高い音をたて、こちらに向かい急降下して来る紺色の戦闘機と目が合う。
「江美ちゃん!」
それは一瞬の出来事だった。
身を屈め小さくしゃがんだ江美を庇う様に、直美は身体ごと覆い被さった。
「パッパッパッパッ……」という音と共に機銃掃射が火を吹き、地面に伏せたふたりの目の前に幾つもの砂煙があがる。
しばらく身を強ばらせ固まっていたが、戦闘機の音がしなくなったので江美が起き上がろうとする。
「お姉ちゃん、もう行ったで……」
しかし起き上がろうにも、直美の身体が重く上手く起きれない。
「ちょっと……重いよ……お姉ちゃん?」
ドサッと音を立て、グッタリと地面に転がった直美の胸部は鮮血に染まっており、次から次へと血が噴き出す。額からも血を流し目は虚ろに開いたまま、何か江美に伝えようと口をパクパクと動かす。
「あれ? おかしいな……お姉ちゃん……なんでやろ? 血が止まらへん……どうしたん」
起き上がることの出来ない直美の頭部を小さな膝に乗せ、とめどなく流れる血を止めようと必死に小さな手で押さえるも、脈打つ度にピュッピュッと指の隙間から噴き出す。
異変に気付いたドドとミミは、動かなくなった直美の顔を何度も舐め「クゥゥーン」と身体を寄せ寂しそうに鳴く。
江美が何か言いたげな直美の口元に耳を近付けると、直美の血塗れの手が小さな手をギュッと握る。
声は絶え絶えになりながらも、最期の力を懸命に振り絞る直美。
「江美ちゃん……江美ちゃんは、生きて……生きてお姉ちゃんの……出来なかったことを代わりにして欲しいんよ……」
その手を強く握り返して、江美は何度も何度も頷く。
「春に咲く……満開の桜……夏の夜に咲く大輪の花火……友達と飲む初めてのお酒……そして焦がれるような初めての恋……この世界は……素晴らしいの」
直美の瞳孔は、開ききったまま宙を泳ぐ。おそらくもう、その視界は何も捉えていないのだろう。
きっと彼女の瞳の裏側には、未だ見ぬ楽しそうな光景が映っていたに違いない。
直美の瞼から、一線の涙が頬を伝い零れ落ちる。
「ごめんね……江美……ちゃん……お姉ちゃん、花嫁さん……見せてあげ……れ……ん……」
そう言い終えないうちに握っていた手は力なく解け、江美の小さな手を擦り抜けて落ちていった。
「お姉ちゃん……? お姉ちゃん、あかんよ。江美、お姉ちゃんの言うこと何でも聞くから……しんだら、しんだらあかんよ……」
揺り起こすも直美には反応はなく、傷口からとめどなく噴き出し続けていた大量の血は、いつしか止まり鮮血が地面を濡らす。
ドドとミミも直美の隣に添い寝するように、しばらく傍から離れようとしない。二匹は直美の死と、その母親の死をも理解していたのだろう。
その様子をただ呆然と眺めていた江美は、幼いながらにきっとこれが最期の別れであることを自覚した。
「なんで……? なんで、お姉ちゃんまで死ななあかんの……おばちゃんが、お姉ちゃんが何した言うん? せんそうなんか……せんそうなんか……大きらいやーーーっ」
泣くまい、泣くまい……と必死に堪えてきた感情が、目の前の大好きな直美の変わり果てた姿よって脆くも崩壊した。
「もう、ぜんぶ。なんもかんも、いややーーーーーーーーっ!」
しかし世界は残酷で残忍だった……。その幼い悲痛な叫びは天に届くことはなく、無情にも再び「ブゥゥゥゥン」と言う低い音と共に、新たな戦闘機が江美を目掛け高度を下げ向かって来る。
「お姉ちゃんを、かえして……」
小さな身体で直美の骸を抱えたまま江美は、向かって来る戦闘機を鋭く睨みつける。
「お姉ちゃんを、かえせーーーーーーーっ!」
そう戦闘機に向かって叫んだ視界の少し先に人影が見えた。
「あ、だれかおる……あぶない!」
よく目を凝らすとそれは、いつしか人形店で出会ったあの少女と少年だった。
「あっ、あの子たちや! 無事やったんや……でも、あかん……あぶないっ! 来たらあかーーーん」
戦闘機は唸るような低い音をたて更に高度を下げ、機銃掃射の射程距離にまで迫り来る。
僅か十メートルほど向こうにいるふたりに、江美は必死に大声で呼びかけるがプロペラの轟音に掻き消され、その声は届かない。
「来たらあかーーーん! にげてーーーーっ!」
何度も何度も大声をあげる江美の思いが届いたのか否か、偶然にもふたりがこちらに振り向いた。
しかし、もう既に背後の戦闘機から「タッタッタッタッ!」と地面を薙ぎ払い直美を死に至らしめた、あの機銃掃射の音が迫っていたのだった。
「死んじゃだめーーーーーーっ! おねがい、にげてーーーーっ!」
その弱く幼き者の心の声は、果たして届いたのだろうか?
力の限り精一杯、江美がそう叫んだ刹那……
爆風と爆音、そして焼ける様な熱風が身体を包んだと同時に、目、耳、そして……ありとあらゆる江美の全ての感覚が途絶えた――
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