第三節 後輩
「えっ」
蕩けていた脳みそが激しく揺さぶられる。
胸に意識が集中していたのもあり、話がほとんど左から右に抜けていっていた。
「やったあ!!」
ポカンとした僕の手を握ったまま、上下に揺さぶっている。
その度に胸が心地の良い感触が離れてはぶつかり、それを繰り返していく。
しかしこの無警戒ぶりは僕のことを男と認識していないのだろう。
そして何よりも僕が誰かの師匠になるなんて、ありえない。
「ディーマ、ちょっと待って。冒険者の事を教える事はできるけど、僕の事を師匠と呼ばないで欲しいんだ」
「どうして、ですか?」
それまで嬉しそうに僕の腕を振っていた彼女は、不思議そうに僕の事を見つめていた。
拒否されたと思ったのかもしれないが、そうではない事をしっかりと伝えなければならないだろう。
「僕は誰かに師匠なんて呼ばれていいような立派な人間じゃないんだよ」
そう……僕は、僕が教えた事で生じるかもしれない事に責任を負えない事を理解しているから。
僕のだらしのない師匠でさえ、教えるという事に何か思う所があったように感じる。
それを表に出すことは決して無い師匠ではあったが、覚悟を持って教えてくれている事は僕にでも理解できた。
僕が海に投げ込んだ石が津波を起こしたとしても、それに対する責任など負えない。
その覚悟がない時点で、僕は誰かに教える事なんて本来してはならないと考えている。
とはいえ、冒険者の常識を教える事でまさか津波など起こるはずもないし、教えないという選択肢の方が津波になってしまう可能性が高い。
小心者の僕はその場合の責任も負えないので、こんな言い訳を心の中でする羽目になっている。
「あの……」
少し黙りこんでいたから、彼女が不安そうに僕に声をかけてきた。
「ごめん、なんでもないよ。大丈夫、ちゃんと僕が知ってる冒険者の常識みたいな事は全部教えるからさ」
「ありがとうございます!えっと……ニール先輩!」
先輩と来たか。
とはいえ、それは師匠という呼び名よりは遥かに僕の責任感を刺激しなくて済むので、気にしない事にした。
こんな言葉遊びで満足する様な神経をしている事に少し気が滅入るが、彼女にもこれ以上不安を与えないためにも受け入れる。
「それとね、僕は男だから」
「……え?」
「状況的に言うのもどうかと思ったけど、言わないのも駄目だと思ったからさ」
「いやいやいや、先輩、どうみても女の子みたいな顔してますし!!なんだったら私より可愛いですし!!というか男だったらなんでこんなに線が細いんですか!?!?ええっ、嘘ですよね??」
さり気なくディーマの容姿に対する自己評価の高さが垣間見えた気がする――そう感じた僕自身、容姿の自己評価が高いという事に後になって気づいて悶絶する羽目になった。
「……どうみても男だし、君のほうが可愛いし、そんな線細くない……はずだし、嘘じゃないし」
「先輩、謙遜は過ぎれば嫌味になるんですよ!?先輩が街を歩けばすれ違った男は十人が十人振り返るレベルですし、なんならナンパしてきます。私が男だったら間違いなくします!!そもそも先輩が男だったら、私はなんなんですか!?」
どうすれば信じてくれるんだろうか、この後輩……。
「えっと、とりあえずその事は後で僕のパーティーメンバーにでも確かめる事にして、お願いだからその手を離して……?」
僕は目を逸しながら、自分の左手を指差して言った。
「えっ、あっ……えっ!?」
どうしてそんな事を言うのか、不思議に思ったのだろう。
ゆっくりと彼女は視線を僕が指差した所へと巡らせる。
夢中になっていた彼女が気づいていたどうかは別として、胸が押し付けられた僕の左手に彼女の視線は釘付けになっていた。
そもそも僕が本当に女性であれば、これくらいのボディタッチを指摘する事はなかっただろうと思う。多分。
つまりそれは僕が胸が当たっている事で気まずさを感じているという事であって、男であるということの一つの証左……になったかもしれない。
それは彼女にも伝わったのか、みるみる内に顔に赤みがさしていく。
そのまま彼女は僕の左手を振り払うのかと思ったら、そっと胸を離して、握っていた手をゆっくりと離したのだった。
そして僕から顔を背けて、恥ずかしそうに両手で顔を覆った。
左手に感じていた温もりが坑道のひんやりとした空気に触れ、それがやけに冷たく感じた。
少しばかりの気まずさを誤魔化すように、僕は頬を右手の人差指で掻く。
目の前でゆでダコみたいになってるディーマと、女に間違われた女性の扱いになれてない僕は、なんとも言えない気まずさを誤魔化す手段を持っていない。
誰か、助けてくれないものか……そんな僕の祈りめいたため息は白い吐息となり、空気中に滲んで、消えていった。