第二節 在りし日の太陽2
「男の子だった……」
水浴びを終え、アジトに帰ってきた僕たち。
その足で心底疲れ切った顔のアイラはクイル達にそう報告した。
「この顔で男!?まじかよ、下手しなくても2人より美少女だぞ、こいつ……。よく大人に目をつけられなかったな」
クイルは女子2人の前で無神経な事を口走る。
それにユニは激しく頷き、アイラは反論の言葉を必死に堪えながらも、しかしその事は認めているのか、何もいわなかった。
反論してほしかった。
美少女だなんて言われても僕は嬉しくない。
全然これっぽちも嬉しくない。
とはいえ、クイルが言った大人に目をつけられなかったというのは本当に幸いだった。
ここで生きていく時に何度か拐われそうな目にあった身としては、この何もわからなかった時期にそうならなかったのは運が良かったとしか言いようがない。
それから僕は言葉を覚えながら、自分にできる仕事を教えてもらった。
靴磨き、ドブさらい、洗濯代行、道案内。
僕らは犯罪行為にはだけは手を出さなかった。
どれだけお腹が空いても、絶対に。
それもこれも彼の口癖のおかげだろう。
大人になってここを出たら世界を皆で変えよう。僕達が自由にしたいことを好きなだけできる世界に。
大人になって、過去の自分に背を向けるないで済むように、自分を許せない事はしたらダメだ。
だから今の俺たちが、頑張らないとその夢は叶わない。
11歳の子供にしては随分と大人びた事を言っているが、彼の過去を思えばこう言うしかなかったのもわかるような気がする。
そんな真っ直ぐな言葉で引っ張ってくれる太陽みたいな彼を、僕らはこっそりと王様と呼んでいた。
でも、だからこそ疑う事なく彼の言葉を信じてやってこれたんだと思う。
僕らを引っ張ってくれたクイルは粗野な話し方はするが、その所作や言葉の端々から上品さを感じ取る事ができる。
それに文字の読み書きが当時11歳の時点で出来ていたので、かなり裕福な家の出だったのだろう、ということには皆気づいていた。
しかし僕らの中にそれを掘り下げるものは居なかった。
彼のおかげで僕らも読み書きを覚えることができたし、うまく行っているのだから特に気にする必要もなかったというのもある。
でも彼は1度だけ、僕にだけ打ち明けた事がある。
当時の僕はグループに合流したばかりで、言葉をまだ理解していなかった頃だ。
誰にも言いたくない、けれども誰かに聞いてほしい――そんな思いからだったのだろう。
だから言葉が理解できてない僕は適任だったわけだ。
ドブさらいの仕事の後、川で汚れを落として服を乾かしている時だった。
僕の隣に腰掛けた彼はこちらを見るでもなく、ただ川の方を見つめて独り言の様にこぼしていく。
「俺さ、ここに来る前、帝都に居たんだ。結構デカイ家に住んでて、温かい食事と温かい寝床があって、今なんかよりずっと……。」
彼はそこで一度言葉を噛み殺していた。
後悔ではないが、なんでこんな惨めな思いをしているんだ、とそう考えてしまったのだろう。
「……で、父上の役職はよく覚えてないけど、大臣をしてたらしくてさ。いつも厳しい顔をして、机に向かっていたよ。」
口調も穏やかになり、言葉選びも丁寧になっていく。
当時の事を思い出しているのだろう。
「そんな父上を扉の隙間からいつも覗いていたんだ、僕は。そして僕を見つけると父上は頬を緩めて、優しい表情を浮かべた。こちらにおいで、と僕を呼ぶんだ」
昔のクイルは一人称が僕だったのだろう。
僕と言っている事に彼自身、気づいていなかったように感じる。
「そして父上は僕を膝の上に乗せて、今日は何をして遊んだんだい、と僕の髪を撫でて尋ねてくれるんだ。僕はゴツゴツした父上の手が好きで、好きで、大好きだった」
そう言って彼は両肩を抱き寄せ、その手を思い出して苦しんでいるようだった。
少しして彼は両肩から手を離し、またポツリポツリとこぼす。
「9歳の頃、僕が母上と屋敷で勉強している時だった。血相をかえた父上が部屋にやってきて叫んだんだ。逃げるぞ、付いてこいって」
「執事のガープが走らせる馬車で父上と母上、僕の4人で屋敷を飛び出した。大臣だった父の馬車は城門で停められる事もなく、郊外に出れたよ。そのまま一昼夜走り続けたと思う。」
そこからの彼の言葉は怒気を孕んで、僕は怯えてしまった。
怖くなって彼の顔を見ることが出来なかった程に。
「流石に馬を休ませないといけないのもあって、野営することになったんだ。初めての野営で僕は少し浮かれていた。父上と母上が何かを話している間、ガープが僕の相手をしてくれたよ。」
「だからあの時、僕が浮かれていなければ――ガープが父上と母上の側に居たならば。2人は死なずにすんだんだ。そうに決まってる」
彼は自分が許せないのだ。
2年経った今でも。
どれほど自責の念に苦しんでいたのか、今の僕ならわかる。
どれだけ、どれだけ悔やんでも悔やみきれない、自分を切り刻んでしまいたい程の怒り。
「どうして――」
思い出の中のクイルが話を続ける。
どうして――
僕は、気づかないうちに二の腕を血がにじむほどに掴んでいた。
だがその程度では僕を罰するには足りない。
もっと深く爪を立てる。
ぐちゅりと指が皮膚を突き破り肉を潰す感覚が指に伝わってくる。
痛みが僕を更に苛立たせる。
どうして痛いなんて思えるんだ。
――彼はもう痛いとすら思えないのに。
自分では気づかなかったが、僕は口に出していたのだと思う。
「どうして、僕が死ななかったの」
思い出の中の彼と重なる。
「――――ッ」
僕は堪らず声を押し殺して呻いた。
痛みからではない、心が――死にたがって。
指の感覚がなくなるほど強く、僕は自分の腕を掴んでいた。
もう少しで弾けそうだ。
このまま、もう少しで、どうでもいい僕の腕を千切ってやりたい。
この役立たずな僕を殺したい。
その時、僕はふっと優しい香りに包まれる。
その香りに包まれた時、一瞬だけ理性を呼び覚ます事が出来た。
先程まで感じていた怒りを、僕の理性がゆっくりと押し殺していく。
身体の芯に渦巻いていた熱が引いて行くのがわかる。
そして、抱きしめられているのだと気づいたのは、少し経ってからだった。
ゆっくりと目を開けるとアイラの側頭部が視界に入った。
辺りは夜の帳に包まれてはいるが、窓から差し込む月光がやけに眩しく感じる。
宿屋で僕は夢を見ていたのか。
乱れた息を落ち着けながら、視線を僕を抱きしめる彼女へと落とす。
彼女の表情は伺いしれないが、微かに嗚咽が漏れ聞こえてくる。
どうしようか悩んだが、とりあえず二の腕を掴んでいた指をゆっくりと離すことにした。
固まってしまったかの様な指をゆっくりと動かしていく。
指が抜け、潰れた幹部から血がドプリと溢れ出した。
酷く痛むが、腕は問題ないようだ。
わからなくなるほどだった、指の感覚も痺れのようなものを感じるので無事だ。
「アイラ……血が服に付いちゃうよ。離れて」
僕はもう大丈夫だから、とそう言って彼女に優しく話しかけるが、彼女は首を横に振って離してくれない。
だから僕もそれ以上は何も言えなかった。
窓から差し込んだ月明かりが彼女の髪を煌めかせる。
曼珠沙華の如く美しい朱。
僕を離さない赤い花――その髪に頬を押し当てる。
溺れたくなる程に甘く、優しい花の香りがした。