記憶喪失の婚約者が愛人を連れて帰ってきまして
婚約者が愛人を連れて帰ってきた。
記憶喪失となって。
己の地位も家族も全て忘れてしまった婚約者――ライナルトに対して、アストリットは愛人を持つことを許した。
ライナルトを愛しているからこそ、ライナルトの為になりたかった。
しかし、愛人以外に心を閉ざしたライナルトにはアストリットの想いは伝わらない。
そして、アストリットは知る。
ライナルトが自分を殺そうとしている、と。
婚約者が愛人を連れて帰ってきた。
それも――、アストリットという婚約者を記憶から失くして。
「何だこの女は?俺に触れるな」
奇跡的に生きていた婚約者に、涙混じりに駆け寄って抱き着いたアストリットに向けられた言葉。
淑女らしくない行動だったとは、アストリット自身も思っている。だが、婚約者の眉間には深い皺が刻まれ、嫌悪感を滲ませた声音は、アストリットの全てを拒絶しているかのようだった。
そして、婚約者の腕に自身の腕を絡ませ、自分のものだと見せびらかすようにしなだれかかる――知らない女。
女の姿は、随分とみすぼらしかった。特別美しいなどといった特徴もない。
どこぞの農村に住んでいた女なのだろう。身体付きこそは発展途上のアストリットより幾分かは良いが、王都の娼婦や舞姫と比べ物にならない程だった。
婚約者に振り払われた手を呆然と見つめるアストリットに、2人は敵意を込めた瞳を向けた。
それがアストリットと婚約者、ライナルトの再会だった。
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ライナルト・クルト・ハインミュラーは、ハインミュラー辺境伯家の嫡男。記録には王家の傍系であり、ライナルト自身も婚約者が王女なので、更に王家との繋がりが深くなる予定であった。
剣よりは筆の方が似合いそうな見た目の通り、文官となれば宰相の位も夢ではないと思わせる程。肩甲骨辺りまである銀髪を項で括り、ややタレ目がちの碧眼はよく優しそうに細められる事をアストリットは知っていた。
だが、彼は辺境伯家の人間。
国境付近で何かあれば真っ先に軍を率いて出兵しなければならない。温厚な彼はあまり騎士向きではなかったが、努力家だったので剣の鍛錬は積んでいた。
秀才で剣の腕も良い婚約者。おとぎ話の王子様のように顔立ちも整っている。
幼いアストリットが婚約者に夢中になるのも早かった。そしてライナルトも、アストリットの事を大切に大切に扱ってくれていたのである。
しかし――、先のゲゼルト大戦。
それは隣国ユートベルが攻め込んできた事が発端だった。
辺境伯家ハインミュラーを中心としたユートベルに近い場所に領地を持つ貴族達が敵軍を食い止め、首都の騎士団が到着すると同時に撃退した防衛戦争。騎士団が到着するまで戦線は拮抗し、激しいものだったと聞く。
その途中で、ライナルトは行方不明になった。
一度は戦死したという情報が流れたこともある。
戦争が終わってからも行方は分からず、状況から生存は絶望的だと周囲から言われていた。
アストリットはライナルトが行方不明になってから、無事を神へと祈り、泣いて過ごす日々。
だから、戦争が終わって半年が経った頃、婚約者が生きていると知った時のアストリットは、神へ感謝して喜びの涙を浮かべたのだ。
これ以上の嬉しいことなんてない、そう思っていたのに――。
抱きつこうとして振り払われた手と、眉間に皺を浮かべたままの婚約者をアストリットは呆然と見比べた。
今までライナルトに乱暴な扱いを受けた覚えなどない。
そしてこれからもない、はずだった。
「……ライナルト様?どうされたんですか?いつもは受け止めて下さるのに」
ライナルトは年下のアストリットの我儘をいつも寛容に聞いてくれる、穏やかな性格の人だった。
しかし、アストリットを冷たく見下ろすライナルトは知らない人のよう。
「俺はお前のことなど知らん。俺の嫁はミルだけだ」
そう宣言して、ライナルトはミルと呼んだ女の腰に手を回す。
アストリットは王女である。尊い存在である。
一番とは言わないが、この王国の多くの女よりも優れている自信もあるし、それに見合うだけの努力を重ねてきた。
記憶を取り戻したらすぐにミルという女は捨てて、アストリットの元に戻ってくるはずだ。
そして、許せたのだ。
たった一度の裏切りを許容出来るほど、アストリットはライナルトの事が好きだった。
今は記憶を失っている。
生きていてくれただけでもいい。
だから、傍らにいる小汚い女がライナルトを助け、看病し、保護したライナルトと共に暮らしていくうちに愛し合うようになったと聞いても、なんとか受け入れる事が出来た。
むしろ、ライナルトを助けたことには感謝している。
しかし、ライナルトはいずれ辺境伯になる。
隣に立つのは農村の女であってはならない。
ライナルトの無事を祝う会が終わってしばらくしてから、アストリットは自らミラのいる場所へと出向いた。ライナルトの我儘で、ミラはハインミュラー辺境伯家の城にずっと滞在している。
城の端。追いやられるように部屋が与えられていた。
身分違いと知っていながら城に滞在出来る図太い神経は、アストリットには理解出来ない。それにライナルトもミラを離そうとはせず、同じ部屋に滞在しているのだとか。
婚姻前の男女が同じ部屋に居ることは、はしたないこと。そう教えられてきたアストリットにとっては、婚約者の行動が信じられない。
だが、ライナルトは記憶喪失。
貴族の振る舞いも、常識も忘れてしまっているのだろう。
ライナルトにとっては、この城にはミラしか親しい者はいない。
ミラの傍にいたいライナルトの気持ちも、悔しいけれど、嫌だけれど、アストリットは受け入れた。
ライナルトを愛しているから。
ライナルトの為なら、何でもしてあげたかった。
だから、前触れも無しに部屋へ現れたアストリットに怯える目を向けたミラに、苛立ちも怒りも沸いたけれど、アストリットは飲み込んだ。
ライナルトは当主に呼ばれていて、この場にはいない。
「ごきげんよう。前は自己紹介も出来なかったわね。わたくしはアストリット・ティアナ・ハーゲングヴィナー。この王国の第二王女よ」
侍女を連れたアストリットは胸を張った。よく手入れされた巻き毛も、丁寧に化粧された顔も、目に見えない知性だって王女に相応しいもの。
対するミラは傷んだ茶色の髪はひとつに結び、くすんだ緑の瞳をかすかに揺らしながら、細い声を出した。
「あ……、ミラ、です」
ミラには貧乏な田舎娘のような服ではなく、町娘のようなワンピースを与えられていた。垢抜けていないのか、似合ってはいなかったが。
「時間もないから本題に入るわ。ミラ、貴女には感謝しているわ。ライナルト様を助けて下さってありがとう」
「いえ、そんな……。私は……大したことは……」
謙虚にも首を横に振るミラに、アストリットは今回の本題をさっさと告げた。
「貴女のことは愛人として認めてあげる。でも、正妻はわたくし。ライナルト様の名誉を傷付けるのは許さないわ」
「え……」
ミラが目を大きく開く。
震える彼女の姿をアストリットは冷めた目で見た。
自分が妻になれるとでも思っていたのだろうか。思い上がりも甚だしい。
謙虚そうに見せかけておいて、強か。アストリットはそういう人々を社交界で沢山見てきた。
「貴女は平民よ。自分の立場を――」
「何をやっている?!」
身の程を弁えろ、そう言おうとした時、扉付近にいた侍女を押しのけるようにしてライナルトが飛び込んでくる。
そしてミラを庇うようにして抱き寄せて、アストリットを睨んだ。アストリットは仕方なく口を閉ざす。
「俺がいない間にミラに何をした?」
唸るような低い声でライナルトは問う。
アストリットの知るライナルトは、こんな荒々しい人ではなかった。その事実が、ライナルトが記憶喪失だという事を裏付けているようで、アストリットの胸が怪我をしたように痛む。
しかし、王女として育ってきたアストリットは己の心を上手く隠した。微笑みだって浮かべられる。
「何もしていませんわ。むしろ、ミラに栄誉を与えただけ。ライナルト様がお怒りになるのは筋違いだわ」
王女に名前を呼ばれ、王女の将来の伴侶の愛人となる事を許されたのだ。平民にとっては異例中の異例。
「わざわざここまで押しかけてきて、何もしていないなんてことはないだろう?!」
「わたくしはライナルト様の事を思ってのことでしてよ。今のライナルト様に大事なものは、わたくしにも大事なもの。ミラを害する事なんていたしませんわ」
嘘偽りない本心だった。
だが、ライナルトは信じられないとばかりに眉間に皺を寄せる。感情的になっているライナルトに今は何を言っても駄目だと、アストリットは諦めた。
アストリットは平民に伴侶を奪われたと陰で言われる事だって受け入れている。
ライナルトが冷静になるまでの時間くらい、いくらでも待てた。
「またの機会にこのお話はしましょう」
アストリットは踵をかえす。ライナルトもミラも言葉を投げかけてはこなかった。
付き従う侍女達が気遣わしそうな視線をアストリットに向けてくる。鬱陶しく思いながら、アストリットは我慢していたものが一気に溢れてくるようだった。鼻がツンと痛んだけれど、涙だけは必死に堪える。
婚約者が、好きな人が、別の女に寄り添っていて何も思わないほど、アストリットは冷めても大人にもなりきれていない。
(辛くないわけが、ないわ……)
それでも、生まれてから16年間。ずっと婚約者でいたライナルトと過ごした長い時間が、アストリットを勇気づけていた。
いつかはきっと、元通りになってくれる。また素敵な婚約者が戻ってきてくれる。
それだけが支えだったのに。
――アストリットの期待を裏切るかのように、時が経って結婚間近になっても、
ライナルトが記憶を取り戻すことはなかった。





