3516
そこは足場のあるところじゃない。人間でも動物でも、そこに立つことはできない。だから、そいつは宙にういているのだ。
ということは、鳥だろうが、鳥がこんな雨の時にうろうろするだろうか。羽が濡れるのをいやがると思う。寒いし、そもそも獲物もこの雨では隠れている。出てくる理由がない。
それじゃあ……なに?
悲鳴があがる。外のやつが、がらすに手をついたからだ。手。
手。
「逃げて!」
俺が叫ぶのと、渓谷に面した窓がらすが叩かれるのとが同時だった。がらすはさすがに頑丈で、それくらいでは破られはしないが、揺れた。台風の風でも揺れないがらすが。
運の悪いことに、渓谷を見るのがこのロビーの名物である。だから、窓の前にはソファが幾つもあるし、そこで寛いでいるひと、うとうとしているひとも多かった。直前の揺れや、揺れたことで驚いたひとが叫んだことで目を覚ましてはいるけれど、ぼんやりしていたひと達が、そこに沢山居たのだ。
そのひと達はパニックになって、転びながら窓をはなれた。小さな子どもが怪我をしたみたいで、大声で泣いている。親と覚しいひとがその子の手をひっぱって抱きかかえ、玄関扉の前まで逃げていく。ナラ夫人が転んだまま立ち上がれていない。ケンゴくんとナラさんでその両脇を抱え、ひっぱっていく。ナラ夫人の左足首は、変な方向に曲がっていた。そんなふうに転んだひと、なにかにぶつかったひと達が、単純な失敗に見合わないくらい大きな怪我をして苦しんでいる。
俺は、こちらへなだれてくるようなひとの波をかきわけ、窓へとすすんだ。「お兄ちゃん!」
妹を振り返る。妹は俺と違い、周囲をひとにかためられて、動けなくなっている。俺は声を張り上げる。「お前はそこに居れ! 動くな!」
妹はなにか云おうとしていたが、俺はもうそちらを見ずに、前へすすんだ。
がらすの向こうのやつは、ぺったりとがらすに顔をつけた。そうすると、流れる雨水に邪魔されずに、がらすにくっついた部分がこちらには見える。
あちこちで凄まじい悲鳴があがる。俺は恐慌状態でかたまっているひと達をおしのけ、倒れたソファを蹴って痛い思いをした。
がらすには、カメレオンの目、のようなものがおしつけられていた。あれみたいに可愛くない。同心円が幾つもある。どこが黒目でどこが白目だよ。その白と赤の色合いは、この情況に似つかわしくないめでたさを感じる。犬かわにのような口から覗く、短いけれど尖った歯らしきものは、黒い。虫歯なのかもしれないな。
さあ、見たことないやつだぞ。こいつ、なんだ?




