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最悪なことに、俺は玉花荘で働いたことがなく、見取り図を知らない。だからあてずっぽうに走って、渓谷へ至るみちをさがすしかなかった。方角は間違っていないと思うのだが、それらしいものがまったく目にはいらない。ロビーの窓を叩き割る訳にもいかないし、建物のなかからあちら側へぬけるような扉もなかった。
フロントに訊いたほうがはやいと判断して、踵を返した。渓谷の画を思い出そうとする。左側に段になっているところがあった気がするけれど。
「お兄ちゃん!」
妹と正面衝突した。抱き留める。「どうしたん?」
「魔物が居た。さっきあの子達、渓谷の近くまで行くって云ってたろ」
「渓谷に居たの?」
息を整えながら頷く。妹の顔色がさっとあおくなった。
「フロントで」
「水佳、みちわかるよ」
「ほんとか?」
「来て」
妹は俺の手を掴んで、走り出す。妹よりも身体能力で劣る俺は、つまずきながらそれについていった。魔王の職業加護もっといいもんないのかよ!
妹は庭のなかを駈けめぐり、藪に這入った。そのなかに、笹を紐で縛ったような柵と、その途中の扉がある。扉は閉じていたが、妹はそれを飛び越えた。俺にはそんな能力はないので、厳重に縛られている紐を崩壊でちぎって扉を開け、妹に続く。
「どこまで行けるんや」
「一番下まではおりられないけど、半分くらいは、途中に鳥の巣とかあって多分そういうの撮ろうってことになったんやと思う。一番下は年に四回整備がはいるだけ。ハーネスつけて」
渓谷もこの旅館の所有地なのだな。ああもうわからん。
柵の向こうには、一応みちらしいものがある。道幅はせまく、下生えに足をとられそうだし、舗装もされていない。まるで御山の藪のなかのようだ。俺は走りすぎたあまりの眩暈をこらえながら、妹のせなかへ云う。
「支配人の番号わかるか」
「知ってるけどもしお兄ちゃんが」
妹は息を整える。「お兄ちゃんが怯えるくらいの魔物が居るんやったら、ケータイ鳴ったら気付くんやないの」
それはご説もっともだ。例えばあの四人と支配人が、ホートリットに気付かれずになんとか隠れているとするなら、俺達がケータイで連絡をとるのは悪手である。そんなホラー映画だかパニック映画だかみたいなへたは打ちたくない。
それにしてもそうか。俺は妹には怯えて見えるらしい。ということは、実際に怯えているんだろう。妹の観察眼は正しい。
ホートリットは熟練の傭兵でさえ警戒するような魔物だ。あいつらが封印されるとしたらそんなにおかしいこととは思えない。こんなところで俺を納得させてくれなくていい。




