神聖公国にて 1
「ミュー!」
声に顔を向けると、たんぽぽの花畑のなかで、ジーナが大きく手を振っていた。新しくつくらせたという、やたらにつばの広い帽子が、風で飛びそうになる。
ミューは内心ほっとして、暫定ながら許嫁であるジーナへ大声で云う。「今行く!ジーナ、その主張の強いやつをちゃんと捕まえていろよ!」
ジーナがにこっとした。ミューは、同年代の少年達を振り返る。
「ジーナが呼んでる。失礼するよ」
「ファバーシウス卿」
この呼ばれかたは嫌いだ。どうせチェスが跡をとるに決まっているのに、皆当てつけるみたいにファバーシウス卿と呼ぶ。特に、入山試験に一次で通ってからと云うもの、その声には軽く畏怖するような響きがまざる。そのくせ、癒しの力しかないのに何故と思っているのがありありと解る。不愉快だ。
「とにかく。君らとジーナなら、ジーナが優先だ」
前なら、こんな強い口調でものを云えなかった。しかし、下手に出ていたらいつまでたっても状況が好転しないと、ミューは裾野で学んだ。だから、要らぬ我慢はしない。
ミューはジーナへ向けて走り出す。背後から、まだ声変わりもしていないような甲高い声が追いかけてきた。「女におもねって、やっぱり君はミュー・ファバーシウスだな」
だったらなんだ?ジーナにおもねるかわりに自分たちにそれをやれとでも?
相手にするだけ無駄だ。ミューはたんぽぽを踏みつけながら走り、性懲りもなく隠密で隠れようとするジーナを抱きしめる。
「君ってやつは、学ばないな」
「あら」ジーナはしかし、くすくすと笑った。「これをあげるから見逃して頂戴」
つばのひろい帽子を、ひょいとかぶせられる。やだねとミューは断って、帽子をジーナの頭へ戻し、抱え上げた。ジーナはとても軽いから、ミューくらいの体力でもなんとかなるのだ。
「マドレーヌを焼いたわ」ジーナは帽子を胸へのせて、その上で両手の指を組む。「肉桂の粉を混ぜたものと、いちごのジャムをいれたもの、お茶の葉をまぜたもの……」
「そりゃ楽しみだ。全部俺のだろ?」
「ほしいならね、欲張りさん」
ジーナはミューの頬を軽くつねる。ミューはにこっとした。
神聖公国南西部、チェルノーラ領。下邸のある、サンディルルと云うまちだ。チェルノーラ邸はまちの端、ひろい丘の中頃にある。丘の上には牧場があって、山羊と羊と牛が始終べえべえと姦しい。丘の下のほうにはチェルノーラ邸のはなれがあって、そちらでは親族が待機している上に枢機卿や大司教や司教と血縁の子どもらがファバーシウス卿ファバーシウス卿と喧しい。上下から騒音にはさまれているというのに、チェルノーラ邸ではめしつかいがかまびすしいのだから、まったくうんざりすると云うものだ。
「今晩は、羊の肉をオーブンで焼くの」
「お茶もすんでいないのに夕食の話はやめてくれ。ここに来てから俺は肥った」
「あなたは痩せすぎてたわ。今でも痩せすぎてる」
「君にそそのかされたら、入山までに手持ちのチュニックを全部チェスに引き渡さないといけなくなる。ずぼんもだ」
「そうしたらいいわ。あなたの着るものはわたしが用意します」
ジーナはちょっと冷たく云って、どこからかとりだした手巾でミューの額を拭った。




