優しい手紙
ただいま、と声をかけたところで返事は返ってこない。
家の中は薄暗く、それはまるで今の僕の心の中のようだった。
キッチンの電気をつけると、今朝はゴチャゴチャとしていた流しはすっきりと綺麗になっていて、テーブルには一通の手紙が置いてあった。
≪お兄ちゃん様≫
桜色のかわいらしい便せんに似合う可愛らしい丸っこい字。
僕は手紙を取り出して読んだ。
おにいちゃん、おかえりなさい。
今日の夕飯は里芋の煮物と豚汁です。温めて食べてください。
デザートは冷蔵庫の中にショートケーキがあります。
友達と一緒に寄った有名なケーキ屋さんのショートケーキです。
お兄ちゃん、食べたいって言っていたので買ってきました。
今日は冷えるので温かい恰好をしてください。
それはまるで昔両親がチラシの裏に殴り書きした置き手紙のような業務連絡。
しかし、この手紙は違った。
業務連絡から一行開いた、その下からはわざわざペンの色を変え、話題は変わった。
どんな授業だったのか、友達とどんな話をしたのか、部活で先輩に褒められてうれしかったことや、帰り道に寄ったケーキ屋さんでは自分の分を苺のタルトにしようかモンブランにしようか悩みに悩んで友達とシェアすることになったこと、帰り道に焼きいもの屋台とすれ違い秋を感じたこと、そんな今年の秋は読書に集中したい、ということ。
そんなことがつらつらと書かれていた。
ちなみにその妹は、いま二階の部屋にいる。
おそらくホットミルクでも飲みながら最近好きだという作家の本を読んでいるのではないだろうか。
汚さないようにそっと折りたたんで、便せんに戻すと、僕は妹が作った煮物と豚汁を温めることにした。
漬物を取ろうと冷蔵庫を開けると、小皿にはおいしそうなショートケーキが乗っていた。
日に日に上手になっていく妹の手料理を食べながら、僕は便せんを眺める。
今日はどんな話をしようか。
特にこれといって面白い出来事があったわけではない。
授業は退屈だったし、バイトがない今日に限って部活は顧問がいないために休み、そんな日に限って遅刻常習犯の友人らは生徒指導室に呼ばれ、結局僕は一人で帰ることになった。
そして今に至るわけだ。
ご飯をかきこみながら、さてどうしたものか、と頭を悩ませる。
とりあえずは、今日の晩御飯も美味しかった、ということを伝えよう。
煮物も豚汁も、心と体が温かくなる優しい味だった。
あと、お弁当が女子にウケていたという報告もしなくては。
それから、妹に借りていた本はまだ半分しか読んでいないけど面白いということや、今年の秋は僕もいっぱい本を読もうと思っていることを話そう。
そんなことを彼女が買ってきてくれたケーキを食べながらゆっくり考えるんだ。
いつの間にか始まった文通。
隣の部屋同士なのに、会えば普通に話すのに、なぜか始まったこの不思議な関係。
最初は母と同じような業務的な連絡だった。
母と違う点といえば、チラシの裏なんかではなく可愛らしい便せんに、殴り書きなんかじゃない丁寧な字と可愛らしい絵で華やかだった。
それから突然の近況報告が始まったのは、
僕がバイト終わりに一人寂しく黙々とご飯を食べているのはかわいそうだという妹のやさしさと、
そんな妹の優しさを受け止め、ありがとうを返したい、という僕の気持ちから。
おにいちゃん、おかえりなさい。から始まる彼女の手紙は、
おにいちゃん、おやすみなさい。で必ず締められている。
そんな彼女の優しさを受け取った僕の手紙はというと、
ありがとう、から始まり、今日もありがとう。で締めている。
何度か「ありがとうばかり言わないで」と怒られたことがあるが、仕方がない。
僕は幼いころからチラシの裏の殴り書きしか見てこなかったんだ。
自分の話を聞いてもらうことも、両親の話を聞くこともなかった。
毎日届く妹からの手紙は僕の中でとても温かく優しいものなのだ。
そういえばもうすぐ便せんがなくなるな。
シンプルなものをずっと使ってきたが、たまには可愛らしいものにしてみよう。
たしか、あの子は猫が好きだったな。ウサギもすきで、犬も好きだったか。
イチゴとかドーナツのようなスイート系の写真がプリントされた便せんも好きだと聞いた。
これは、時間をかけて選ばなくては。
そんなことを考えながら僕はショートケーキの乗った小皿を片手に二階へと上がる。
ありがとう、から始めたこの手紙。
さて今日はどんな話を妹にしようか。
僕は温かい気持ちのままショートケーキを頬張る。
優しい味が口に広がった。