二
本日二話目です。
次は12時更新予定です。
「お帰りなさい! お風呂にします? ご飯にします? それともわ・た……」
「風呂」
玄関を開けた途端飛び出したリサに最後まで言わせず、グレンは鞄を押しつけた。
よくもまあ毎日飽きないものだと思うが、リサがこの台詞を言いながら飛びついてくるのは、グレンの帰宅の度に繰り返される儀式だった。
必ずグレンにはそっけなくされているというのに、一体何が楽しいのかリサは喜色満面だ。
コートを脱ぎ、マフラーを外すのも、一つずつリサが手を出して受けとる。
仕草だけ見れば、間違いなく夫婦のそれのように、ごく自然なものだった。
グレンは脱衣室に服を脱ぎ捨て、そのまま熱い湯船へ身を沈めた。
「はぁ……」
思わずこぼれたため息は、凝り固まった身体が熱い湯でほぐされたからでもあり、わけのわからない状況に慣れつつある自分の適応力に対してでもあった。
――あれから二週間。
おかしいのはグレンの方だという事実をいくつも突きつけられた。
それは例えば、グレンが楽しみに取っておいた果実酒の隠し場所を知られていたり、子どもの頃につけた古傷のエピソードを語られたり、グレンの好きな菓子を食卓へ並べられたり……。
事実としてはどれも小さなものだったが、これだけ揃えられれば、赤の他人だとは言いづらいものがあった。
そして、ただの悪ふざけにしては手がこみすぎている気がした。
ただグレンをかついで笑いたいだけなら、あの一瞬で十分だったはずだ。それが粛々と二週間も続けられていることが、どうにもおかしい。
もしかしたら、本当におかしいのは俺なのか――?
しかし、何度思い返しても、グレンの記憶の中には不足はない。
まるごと出来事を忘れてしまうならいざ知らず、一人のことだけをすっぽりと忘れてしまうことなどあり得るのだろうか。
ゆっくりと身体を洗い、再び温めてから浴室を出ると、脱ぎ捨てた衣服は片付けられ、清潔な室内着が置いてあった。
そこに下着が含まれていることを気まずく思う気持ちも――繰り返しの中で薄れつつあることをグレンは気づいていた。
「今日は市場で良いお魚が手に入ったんですよ」
にこにこと笑いながらリサが出してきたのは、たくさんの野菜と共に煮込まれた大きな鯛だった。
芋も玉ねぎもほっこりと湯気をたて、魚へ色を添えている。魚のふっくらとした厚い身が押し上げる皮は、黄金色の焦げ目がついていた。
あまり食欲を感じていなかったはずのグレンの腹が、急にくうと音を立てる。
「……うまそうだな」
「でしょ! いただきましょう」
誇らしげに笑い、熱いスープを運ぶリサを見ながら、もし――もし本当にこんな妻を自分が選びとっていたなら、それは間違っていなかったのかもしれないと、ほんの少しだけ、思った。
◇◇◇◇◇
「どういう……ことですか」
「どういうこともないよ。相手が悪かったというだけだ」
ほう、とため息を吐き出すブライアンを見て、グレンは罵りたい気持ちを手のひらに爪を立てることでやり過ごした。
普段のブライアンは、気の良い男だ。妻と子を愛し、温厚で実直な性格の男だから、ともに仕事をしていても、ブライアンに対して苛立つようなことはなかった。
グレンの仕事は、副大臣とともに王を補佐する政務官と呼ばれるものだ。
政務官を任命されている人間は複数いるが、その中でも特にグレンは上位貴族と王をつなぐ役割を担っていた。
「俺は、マクラーレン伯爵の素行に疑うべきところがあると申し上げただけです」
「だから、相手が問題なのだよ」
怪しくなった頭頂を撫で上げながら、ブライアンが首を振った。
「良いか、我等政務官は権力を与えられてはいるが、所詮は庶民だ。我が国では爵位を持たないものの発言は、どうしても貴族のそれとは重さが違うのだよ。いくらマクラーレン伯爵に疑惑を持っても、確かな証拠がない限りには動くことはできないし、告発するなどもっての外だ。下手をすれば君自身が職を失うだけではなく、一族みな国を追われることもあり得るのだよ」
「…………」
口を引き結びことばを失ったグレンの肩を、ブライアンが叩く。
そこには優しさはあれど、言い聞かせるような重みがあった。
「君が許せないと思うことは、確かに真実だ。だがね、この国ではその真実が覆い隠されてしまうこともあるんだ」
それが、目を瞑るしかないという、最後の通暢であることは、グレンにもわかった。
「……ただいま」
職場で思ったことも、感じたことも、自宅まで持ち帰らないようにしろということは、新人の頃に叩き込まれたことだったが、今日ばかりは果たせそうになかった。
グレンとて政務官になってから十年が経とうとしている。たくさんの貴族ともやりあってきたし、彼らが抱える灰色な部分も良く知っている。
ただ、こうして明らかに――他の貴族や平民であれば、即処罰対象となり得ることをしたとしても許されるという事実に、どうしても憤りは抑えられなかった。
扉を開けて飛び出してきたリサの顔を見ることもできない。
「おかえりなさい! ……グレンさん?」
「……もう、寝る」
見上げてくるリサの顔はどんな色を浮かべていたのか。
先に顔をそらしたグレンにはわからなかった。
ふと、襟元を引かれて、身体が傾いた。
「……っ?」
慌てて頭を起こそうとするが、叶わない。
小さく柔らかな両手で、グレンの頭はしっかりと抱えられリサの肩に置かれていた。
同じ洗濯洗剤で衣服を洗って、同じ石鹸を使っているはずなのに、グレンとは違う匂いが肺へと入ってきた。
「……グレンさん。私はちゃんと味方です」
肩を通して響いてくる声は、少しだけ低く甘かった。
襟足のあたりを、温かい手がゆるゆると撫でていく。
「お前に、何がわかる」
それは、あとから考えれば八つ当たり以外の何物でもないことばだったが――そのときのグレンにはわからなかった。
「わかりませんよ。私はただ、グレンさんが好きなだけですから」
少しだけ首を傾ければ、ほんのりと染まったリサの頬が見えた。
「どこで辛い思いをしても、腹が立つことがあっても、ちゃんと帰る場所を用意しておきます。だから……帰ってきてくれて、ありがとう」
ふんわりと笑うリサの顔は、いつまでもグレンの中で輝き続けるものになった。
◇◇◇◇◇
はじめはほんの僅かな違和感だった。
洗濯物を畳んでいるとき、お帰りの抱擁をしたとき、食事のとき。
「リサ、どうした?」
それは、グレンの記憶では、いきなり生じた妻との生活をはじめて二月が経つ頃だった。
「……え? 何がですか?」
ふにゃりと笑うリサの顔には、覇気がない。
ここのところ日に何度もぼんやりすることがあった。
ときどき頬に手を当てて何か考えるようにしながら、ぼうっと視線をさまよわせる様は、グレンを不安にさせた。
「どこか具合でも悪いのか」
「……いえ、大丈夫です」
先に休ませていただきますね、と言い置いて、リサは客室へ消えた。
まだ夜も早く、いつもであれば熱い茶を淹れて、暖炉の前であれこれと話しながら過ごす――そんな時間のことだった。




