20.名前
「待てよ!!」
あまりにも大きな声で叫んだから
彼女だけじゃなく、
周りにいた通行人までも、
一斉に俺に振り向いた。
でも、どんなにたくさんの視線を受けてても関係ねぇ。
彼女の視線だけが、
俺に向いてればいい。
俺は彼女に話しかけようと、
一歩、一歩、
彼女との距離を縮めていく。
彼女はみんながジロジロ見ているのを恥ずかしがっていたが、
もう俺はそんなこと気にしねぇ。
彼女の前に立った時、
やっと声を出すことができた。
「えっと・・・、あんたの名前は?」
ナンパみたいな言葉。
でも、実は、
これが今、俺に聞ける精一杯のコトバだった。
他にコトバが思いつかなかった。
彼女の返事を待ってる間、
体が緊張して動かない。
こんな体験、生まれて初めてだ。
彼女もあまりにも唐突な質問に、
目を丸くしていた。
その目を見た時、
なんだか悪いことをしたみたいで、
俺はまたうつむいてしまった。
こんなこと・・・、
急に聞くなんて、
普通は変だよな。
何か、自己嫌悪・・・。
「サチです。」
頭の上から柔らかい声。
顔を上げると、
彼女は照れたように微笑んでいた。
そして、小さな唇を開いて言った。
「谷中 幸。幸せって字を書いて、サチです。」
サチ。
やっと聞けた、彼女の名前。
サチ。
サチ。
サチ。
何度も何度も繰り返して呼びてぇ。
本当は声に出したいけど、
ガラじゃねぇし、
恥ずかしすぎる。
人の名前がこんなに愛しく思ったのは、
初めてだ。
「じゃあ、また。」
彼女はまた会釈して、歩き始めた。
また俺から離れていく。
また、どんどん俺との距離が開いていく。
だけど、
今度は淋しくない。
名前を知ってる特別感と、
『またね』という口約束で、
次も会えるかもという期待感が、
俺の心を温かくしていた。
彼女の姿は、
もう人ごみの中に消えている。
だけど、
彼女の笑顔と声は、
俺の心から離れることはなかった。
いつしか、
俺はニヤニヤしながら、
八重門町を歩いていた。