第3話 一人にしないで
葬儀が終わった。
人が帰っていく。花が片付けられ、線香の匂いも少しずつ薄くなる。あれだけ人で埋まっていた場所が、急にただの会場へ戻っていく。
世界は、驚くほど普通に進んでいた。
俺が死んだことは、今日中に片付けられる出来事の一つでしかない。葬儀場の人は慣れた手つきで供花を運び、親戚たちは香典返しや今後の手続きの話をしている。誰も悪くない。誰も間違っていない。
それなのに、陽菜だけが取り残されていた。
制服のまま、椅子に座っている。親戚に声をかけられても、学校の先生に慰められても、近所の人に何か言われても、小さく頭を下げるだけだった。
泣きもしない。
怒りもしない。
ただ静かだった。
その静かさが、怖かった。
陽菜は昔から、泣く時は泣く子だった。母親が死んだ時も、しばらく我慢したあと、家に帰ってから声を上げて泣いた。俺のシャツを掴んで、何度も「お母さんは」と聞いた。
あの時は、俺がいた。
答えられなくても、抱き締めることはできた。泣き止ませられなくても、背中をさすることはできた。飯を作り、風呂を沸かし、明日の準備をしろと言うことはできた。
今は、その俺がいない。
泣きつく相手がいないのだと気付いて、俺は何も言えなくなった。
いや。
言ってはいた。
ずっと言っていた。
陽菜。
大丈夫じゃなくていい。
泣いていい。
怒っていい。
お父さんを返せって、言っていい。
けれど、その全部が届かなかった。
◇
夜、家に帰った。
帰った、という言い方が正しいのかは分からない。俺はもう住人ではない。鍵も持っていない。ただ、壁をすり抜けて入れるだけだ。
玄関には、見慣れた靴が並んでいた。
陽菜のスニーカー。
学校指定のローファー。
俺の革靴。
全部いつものままで、俺だけがそこから外れていた。
陽菜はリビングにいた。まだ制服のままソファに座っている。テレビは消えている。スマホも触っていない。食卓の上にはコンビニの袋があり、おにぎりが二つ入っていた。
一つだけ、包装が開いている。
俺はそれを見て、少し安心した。
何か食べたらしい。
それだけで安心するあたり、親というのは本当に馬鹿だ。死んでまで、食べたかどうかを気にしている。
「陽菜」
呼んでも、反応はない。
「もう一個も食べろ」
聞こえない。
「風呂入れ。歯も磨け」
もちろん、聞こえない。
悲しいのに少し笑いそうになった。生きていた頃と同じだ。どうせ聞こえていたとしても、陽菜は面倒くさそうな顔をしたはずだ。
ただ違うのは、今は本当に聞こえていないことだった。
陽菜はしばらく動かなかった。
窓の外を見ているのか、何も見ていないのか分からない目をしていた。部屋の中には、今日持ち帰った花と、葬儀社が用意した小さな仏壇がある。
そこに、俺の遺影が置かれていた。
あらためて見ると、本当に写真写りが悪い。もっとましな写真を選んでくれと思ったが、そもそも俺は写真を撮られるのが好きではなかった。
スマホの中に残っていた写真のほとんどは、陽菜の写真だ。
だから俺の遺影は、たぶん陽菜が探し回った末に選んだ一枚だった。
文句を言う資格なんて、なかった。
陽菜はようやく立ち上がった。
風呂に入るわけでも、着替えるわけでもない。そのまま仏壇の前へ行き、膝を折った。
遺影を見つめる。
少しだけ、口元が動いた。
「変な顔」
小さな声だった。
俺は安心した。
ほんの一瞬でも、陽菜が笑ったからだ。笑いと呼べるほどのものではない。それでも、さっきまでの空っぽな顔よりはずっとよかった。
「そういえばさ」
陽菜は遺影を見たまま言った。
「悪霊になるとか言ってたよね」
俺は動きを止めた。
「私に害なす奴は、骨折って目潰すとか」
陽菜は少しだけ笑った。
泣きそうな笑いだった。
確かに言った。
つい先日の晩だ。
くだらない冗談だった。海外ドラマを見ながら、娘に流されるためだけに言った、どうしようもない父親の冗談。
それが今は、遺言みたいにこの部屋へ残っている。
「ほんと馬鹿」
陽菜は呟いた。
「小学生みたい」
それから、黙った。
線香の煙だけが細く上がっている。部屋は静かだった。冷蔵庫の低い音が、いつもより大きく聞こえた。
「でも」
陽菜の声が小さくなる。
「本当に悪霊になってたら、ちょっとだけ安心したかも」
俺は顔を上げた。
「守護霊じゃなくていいから」
陽菜は遺影に向かって言った。
「悪霊でもいいから」
ここにいる。
そう言いたかった。
守護霊か悪霊かは分からない。でも、俺はここにいる。お前の目の前にいる。お前を一人にしたくなくて、まだここにいる。
その時、陽菜が言った。
「お父さん」
俺は反射的に返事をしそうになった。
「いる?」
胸の奥が固まった。
いる。
ここにいる。
俺は陽菜の前に膝をついた。手を伸ばす。指先が陽菜の手に触れる直前で、何の抵抗もなくすり抜けた。
「いるぞ」
全力で言った。
「陽菜、ここだ」
届かない。
「いるなら、返事してよ」
陽菜は少し待った。
もちろん、何も起きない。
写真も動かない。
線香の煙も揺れない。
俺の声だけが、誰にも届かずに部屋の中で消えていく。
「……だよね」
陽菜は力なく笑った。
「いるわけないか」
違う。
いる。
いるのに。
俺はもう一度、陽菜の肩に手を置こうとした。すり抜ける。もう一度。やはり、何も触れない。
陽菜は遺影に向かって話し続けた。
「今日さ、みんなお父さんのこと褒めてた」
俺は黙って聞いた。
「英雄なんだって」
違う、と言いたかった。
「子どもを助けたんだって」
そういうことになっている。
「私、嬉しくなかった」
知っている。
「助かった子がいるのは、分かるよ」
陽菜は唇を噛んだ。
「良かったって思わなきゃいけないのも、分かってる」
その言い方が、嫌だった。
思わなきゃいけない。
陽菜は、もう自分の悲しみさえ正しく並べようとしている。誰かの命が助かったことを喜べない自分を、悪いものとして扱おうとしている。
「でも」
陽菜の声が震えた。
「お父さんに生きててほしかった」
その言葉で、俺は目を閉じた。
それでいい。
そう思った。
それでいいんだ。娘なんだから、父親に生きていてほしいと思っていい。誰かの子どもより自分の父親を返してほしいと思ってしまう夜があっていい。
「最低だよね」
違う。
「ごめん」
謝るな。
「英雄の娘なのに」
そんなものになるな。
「私、全然ちゃんとしてない」
ちゃんとしなくていい。
俺は立ち上がり、陽菜に近付いた。抱き締めたいと思った。頭を撫でたいと思った。大丈夫じゃなくても、大丈夫じゃないまま隣にいると言いたかった。
何もできなかった。
事故現場でも、病院でも、葬儀でも、俺は自分が死んだことを理解したつもりでいた。でも違った。どこかで、まだ思っていたのだと思う。
そのうち声くらい届くんじゃないか。
夢に出るくらいはできるんじゃないか。
肩くらい叩けるんじゃないか。
違った。
本当に、何もできない。
俺は世界に触れられない。
娘にも触れられない。
陽菜は遺影を見ていた。涙が頬を伝っている。泣き声を抑えようとしているせいで、余計に苦しそうだった。
「一人にしないでよ」
その言葉で、俺は初めて絶望した。
事故の時より、死亡確認の時より、葬儀の時より、ずっと苦しかった。
俺はここにいる。
いるのに、一人にしている。
父親なのに。
そばにいるだけでは、そばにいることにならない。
守りたいと思うだけでは、守っていることにならない。
愛しているだけでは、何一つ届かない。
その時だった。
リビングの窓の外に、誰かの気配があった。
陽菜は気付いていない。泣きながら遺影を見ている。俺だけが、そちらを向いた。
家の前の道路に、三十代くらいの男が立っていた。
スマホを片手に、画面を見ている。最初は通行人かと思った。誰かを待っているだけにも見えた。道に迷って、地図を確認しているだけかもしれない。
けれど、違う。
男が見ているのはスマホではなかった。
この家だった。
陽菜のいる家だった。
男はカーテンの向こうをうかがうようにして、それから少し笑った。
嫌な笑い方だった。
その瞬間、俺の胸の奥に、愛情とは別のものが生まれた。
黒くて、冷たくて、はっきりした感情だった。
あいつは何だ。
何を見ている。
誰を狙っている。
俺は窓へ近付いた。ガラスに触れようとした指は、やはり何の抵抗もなくすり抜けた。
だが、胸の奥に生まれたその感情だけが。
ほんの少しだけ、世界に触れた気がした。
守りたいと思った時には、何も起きなかった。
抱き締めたいと思った時にも、何も起きなかった。
けれど、あの男を許せないと思った瞬間だけ。
窓ガラスの向こう側が、ほんのわずかに近くなった。




