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『私は悪霊になり、娘はカルトになった』  作者: 根古野 惹句
第1章 父の死

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第1話 私は娘を置いて死んだ

 死ぬ時、人は走馬灯を見るらしい。


 少なくとも、俺は見なかった。


 覚えているのは、音と衝撃だけだ。右から何か巨大なものが突っ込んできて、車ごと横殴りにされた。肺が潰れ、視界が白く跳ねる。身体の奥から、情けない音が漏れた。


「グフッ」


 それが最後だった。


 阿久津亮平、四十二歳。


 死ぬ瞬間に考えたことは、娘の顔ではなかった。人生でもなかったし、神様でもなかった。ただ、あ、と思った。


 その程度だった。


 少し遅刻しそうだった。それだけで、俺の人生は終わった。


 前の晩、娘の陽菜と二人でネトフリを見ていた。海外ドラマで、怪物みたいな男が人間を宙に浮かせ、骨を嫌な音を立てて折る場面があった。目も潰れていた。


 陽菜はクッションを抱えたまま、顔をしかめた。


「うわ、最悪」


「でも悪役だからな」


「だからってやりすぎでしょ」


「まあ、俺が死んで霊になったら、陽菜に害なす奴はあれくらい罰してやるよ」


 陽菜は画面から目を離し、俺を見た。


「それ、守護霊じゃなくて悪霊じゃん」


「父さん、昔から悪霊って呼ばれてたしな」


「それ前にも聞いた」


「格好良くない?」


「全然」


「悪霊だぞ。強そうだろ」


「小学生か」


 陽菜は呆れたように笑った。俺も笑った。


 どうでもいい会話だった。父親が娘にする、つまらない冗談。娘が適当に流す、聞き飽きた昔話。あとから思えば、そのくらいのものほど、二度と戻らない。


 翌朝、陽菜とは軽く言い合いになった。


 反抗期真っ盛りの十五歳は、最近、何を言っても一言返してくる。こっちもこっちで、放っておけばいいことまで聞いてしまう。


「帰り遅いから」


「何時」


「分かんない」


「分かんないじゃ困るだろ」


「友達と勉強」


「勉強なら時間分かるだろ」


「もーうるさいな」


 そんな会話をした。


 陽菜は、玄関で靴を履いてから「行ってきます」と言った。俺も台所から「行ってらっしゃい」と返した。たぶん、返した。朝の記憶というのは雑で、いつものことほど輪郭が薄い。


 あれが最後の会話になるなんて、思うわけがなかった。


 食卓には、陽菜が残したトーストの端があった。流しには皿が二枚置いてあった。洗濯機の中には、前の晩に回したタオルが入ったままだった。帰ったら干せばいいと思っていた。冷蔵庫には昨日作ったカレーが残っていて、夜はそれを温めれば済むはずだった。


 親子二人きりの生活なんて、特別なものではない。


 誰かが残したパンを捨てる。皿を洗う。脱いだ服を畳む。帰りが遅いと言われれば時間を聞く。面倒くさがられても、聞く。


 今日もやって、明日もやって、明後日もやる。


 そのつもりだった。


 信号が変わった。


 少し強くアクセルを踏んだ。


 右からトラックが来た。


 それで終わりだった。


 次に気付いた時、俺は交差点の端に立っていた。


 空が妙に明るかった。サイレンが鳴っている。誰かが叫んでいる。道路にはガラスが散らばり、俺の車は見たこともない形に潰れていた。運転席側は、もう車と呼べる状態ではなかった。


 最初は理解できなかった。いや、理解したくなかったのかもしれない。


 救急隊員が走る。警察官が規制線を張る。野次馬が少しずつ増えていく。俺はその横を歩いた。


「すみません」


 声をかけても、誰も振り向かない。


「おい」


 近くにいた警察官の肩を掴もうとした。


 手が、すり抜けた。


 触れなかった。


 その時、救急隊員たちが車体を切り開いた。中から人が出てきた。白いシート。血。潰れた身体。


 俺だった。


 妙に冷静だった。ああ、死んだのかと思った。泣きもしないし、叫びもしない。現実感がなかった。ただ、自分の死体を見ていた。


 救急隊員が首を振る。警察官がメモを取る。誰かが身元を確認する。


「運転免許証確認」


「阿久津亮平さん」


「家族は?」


「娘さんが一人」


 その言葉で、初めて胸の奥が嫌な音を立てた気がした。


 娘。


 陽菜。


 俺には娘がいた。当たり前だ。さっきまで一緒に暮らしていた。朝、言い合いをしていた。行ってらっしゃいと言った。なのに、自分が死んだことを理解するまで、そこに考えが届いていなかった。


 死んだ。


 それは、もう仕方ない。仕方なくなんてないが、俺にはどうしようもない。


 でも、陽菜はどうなる。


 今日の晩飯はどうする。洗濯物は誰が干す。学校から帰って、あいつは誰に「ただいま」を言う。帰りが遅い時、誰が時間を聞く。熱を出したら、誰が病院に連れていく。進路希望の紙は誰が見る。保護者欄には、誰が名前を書く。


 急に落ち着かなくなった。


 俺は警察官の後を追った。救急車の後を追った。どうやって移動したのかは分からない。距離も壁も、もう意味がないらしい。気付けば病院にいた。


 白い部屋。白いベッド。俺の遺体。


 医師と警察官と事務員が、それぞれの仕事をしていた。みんな普通だった。俺だけが、おかしかった。


「死亡確認、午前九時二十三分」


 医師がそう言った。


 死亡確認。


 言葉は意外なほど軽かった。人一人の終わりを告げるには、あまりにも事務的だった。でも本当に重かったのは、その後だった。


「ご家族への連絡を」


 警察官が言った。


 当然だった。連絡しなければならない。陽菜に知らせなければならない。学校へ連絡して、誰かがあいつを呼び出すしかない。


 分かっている。警察官は正しい。医師も正しい。事務員も正しい。この場にいる誰も、何も間違っていない。


 だから余計に、どうしようもなかった。


 警察官が受話器を取った。番号を押す。コール音が鳴る。俺は電話機の横に立っていた。止める理由はない。止める権利もない。そもそも、止める力がない。


 ただ、その一本の電話で、陽菜の世界が変わる。


 朝まで俺に「うるさい」と言っていた娘が、次に呼び出される時には、父親を失った子になる。


「府立薪野高校でしょうか」


 警察官の声は落ち着いていた。仕事の声だった。


「警察です」


 恨めしいわけではない。恨める相手などいなかった。


「阿久津陽菜さんについて」


 陽菜。


 名前が出た瞬間だけ、何かが胸の奥で潰れた。俺はもう死んでいる。心臓なんて、たぶんない。それでも確かに、潰れた。


「ご家族が事故に遭われまして」


 その一言で、世界は先へ進んだ。


 俺だけを置いて。


 電話は終わった。


 次は学校の職員室だ。担任が呼ばれる。教頭か、学年主任か、誰かが事情を聞く。それから陽菜が授業中の教室から呼び出される。廊下を歩きながら、何かやらかしたのかと少し面倒そうな顔をするかもしれない。


 そして、知らされる。


 朝まで普通に話していた父親が、もういないと。


 俺だけが知っていた。これから陽菜の人生が変わることを。


 そして、それを少しでも和らげる力が、俺には一切ないことを。


 その電話が、娘から日常を奪う電話だと、この世界で、俺だけが知っていた。

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