第007話 水の営み
「いらっしゃいませ」
「こんばんは。一泊泊まりたいんですが……」
ルィンは小さな町に辿り着き、簡素な佇まいの宿屋に入った。
カウンター越しに穏やかな雰囲気の女性が笑顔で出迎える。
「あら、まぁまぁ、かわいい旅人さんね。一人?」
「一人じゃないわ、わたしもいるんだから」
ルナが頭の上からひょこりと顔をのぞかせた。
「あらあら、これまたかわいらしいお友達ね」
女性は目を細めて微笑んだ。
「お名前は?」
「ルィンです。こっちはルナ。一泊だけ泊めてほしいんです」
女性は小さく頷きながら、二人を見てにっこりと笑った。
「ルィンくんとルナちゃんね。ええ、いいわよ。お食事はどうする?」
「あ、夕食をお願いします」
「わかったわ、準備しておくわね。お部屋は二階の一番奥。川の音がよく聞こえる、静かでいいお部屋よ」
案内された部屋に入ると、ルィンは窓の外を眺めた。
夕日に照らされた静かな町並みと、遠くでは風で揺れる広大な草原が広がっていた。その光景を見て、ほんの一瞬だけ村の夕暮れを思い出した。村を出てから、似ても似つかない風景なのに、ふと重なる記憶があることに心が動かされることが多々あった。
「この村は……影に襲われた様子はないね」
「そうね、みんな変わらず普通に暮らしてる感じがするわね」
「場所によるのかな……」
考えにふけっていると、ぐぅ、と小さくお腹が鳴るのが聞こえてきた。
「ルゥ、わたしおなかすいてきたわ」
「ふふっ、夕食を用意してくれるみたいだから、食べに行こうか」
階段を降りて食堂へ向かうと、先ほどの女性がお皿を運んでいるところだった。
「あら、ルィンくん。お夕飯の準備はできているわ。はいどうぞ。ルナちゃんも」
「ありがとう! ねぇお姉さん、よかったらこの町のこと聞かせてくれる?」
ルィンは、訪れた土地の人々の生活の様子を聞くのが好きだった。そこにある小さな工夫や祈りの形が、まるでその人たちの心そのもののように感じられた。知らないことを知るたびに世界が少しずつ広がっていくような気がして、それがなんだか嬉しかった。
――同時にそれは、旅の辛さや、故郷を失った寂しさや悲しさを紛らわせるためでもあった。
「ふふっ、いいわよ」
女性は微笑むと、向かいに座り静かに語り出した。
「この町は人は多くはないけれど、みんなで助け合っていて明るい雰囲気なのよ。水車や魚の養殖もあって、水の精霊様に感謝しながら毎日暮らしてるの。ふふっ、水の国だものね」
宿の外からは水路を流れるせせらぎがかすかに聞こえてくる。
「町の中央には水の精霊様の像が置いてあって、みんな旅の無事や豊作を願うの。朝になると子どもたちが精霊様に挨拶する姿が見られるわ。あの子たちの笑顔を見るとね、今日もきっと大丈夫って思えるの」
町の人たちが水に寄り添い、感謝の気持ちを大事にして生きている。そんな暮らしぶりは、ルィンのとってもどこか懐かしく感じた。
ルナもパンの欠片を頬張りながら、テーブルの上に座って興味深そうに耳を傾けていた。
女性の話を聞きながら、ルィンはひとつだけ疑問が浮かんだ。
「水の国……ねぇ、国って他にもあるの?」
「ええ。そうね、近くだと炎の国や大地の国が隣にあるわ」
それを聞いて、ルィンの中で何かがふっと広がった。知らない国、見たことのない風景。水だけじゃない、炎や大地――そんな世界がこの先にあると知り、胸の奥にかすかな期待が芽生えたような気がした。
「僕の知らないことがまだまだたくさんあるんだ。なんだか不思議な感じ……」
これまでの毎日は小さな村の中だけで完結していた。見えていたものも、知っていたこともほんのひと握り。風に揺れる草原の向こうには自分の知らない世界が広がっている――
「ありがとう、お姉さん!」
「ふふっ、どういたしまして」
食事を終えて部屋へ戻ると、紫に染まりつつある空を眺めながら、先ほどの女性の話を振り返った。
「ねえルナ、ここは水の国なんだって。もしかしたら、国ってルナが言ってた魔法の種類ごとにあるのかもしれないね」
「そういえば、この町の人たちは水の精霊を敬っているって言ってたわね。わたしが前にいたときは国は一つだったから知らなかったわ」
ルィンの目が空の向こうをぼんやりと見つめる。
「サラの国はどこだったんだろう……」
ぽつりとこぼれた言葉に、ルナがそっと肩に降り立った。
「ルゥ、あんまり思い詰めても身体に悪いわ。今日もたくさん歩いたし、もう休みましょう?」
「うん……そうだね」
ルィンはルナに促され、ベッドの布団に身を沈めた。
まぶたを閉じると、水のせせらぎが耳に届いてくる。静寂が夜空を満たす頃、ルナのスースーという小さな寝息が、水音とともにルィンの意識の底に沈んでいった――
旅が始まってひと月。ルナの案内で宝石に残る魔法の痕跡を辿ってきたが、その方角が徐々に森の方へと変わっていった。道は草原から木立へと入り、やがて背の高い木々が視界を覆い始める。
深い森の入り口に立つと、目の前に広がる影の深さに肩がこわばった。生い茂る木々を見上げると、木々の隙間からわずかに差し込む光は、平原の明るい日差しとは異なり、冷たく不気味な影を落としていた。
「ここからは森の中か……」
足元の落ち葉がかさりと鳴る。その音さえ森の中に吸い込まれていくようで、まるで別世界へと誘われるように、ルィンは慎重に一歩を踏み出した。