第046話 緑の里
風の音に微かな変化が混じり、森の空気は湿気を帯びて肌にまとわりつく。どこか重たく、呼吸さえ浅くなるような感覚だった。外の村で感じていた穏やかな風とはまるで違い、ここではひんやりとした気配が肌を撫でていく。足を進めるほどに光は薄れ、静けさばかりが深まっていく。
ルナが肩口から顔をのぞかせ、ひっそりと周囲を見渡す。
「このまとわりつく感じ……やっぱりわたし苦手だわ……」
小さな震えが伝わってくる。
「ルナは僕の服の中で休んでていいよ」
「そ、そう? ……ルゥってなんだか最近頼もしいわよね」
胸元に潜り込むと、そう言って小さな目で見上げてくる。
「そうかな? 自分ではそんなに変わった気はしないけど」
そう答えながらも、その足取りには迷いがなかった。小さな相棒を抱え、さらに森の奥へと進んでいく。
「――!!」
しばらく進んだところで近くの茂みが大きく揺れた。すぐに足を止め、周囲へ視線を巡らせて気配を探る。薄暗い木々の隙間に赤く光る四つの点が浮かび上がった。
音もなく姿を現したのは、狼と熊の影。ゆらゆらと黒く空間を歪ませ、重たい足取りで迫ってくる。
「……ルゥっ!」
「ルナはそのまま休んでて」
落ち着きを崩さず、声を落として影に向かっていく。周囲のわずかな光を受けて、右腕の水の刃が静かにきらめいた――。
森の中には、影の気配が満ちていた。道中で何度も立ち止まり、その都度現れる影を迎え撃つ。だが、進むほどに空気の違和感が次第に濃くなっていく。木々は曲がりくねって輪郭が歪み、鳥の鳴き声さえ聞こえない。音のない静寂が辺りを覆い、空間全体がどこかよそよそしく感じられた。
「なんだろう、この森、やたらと影が多い気がするな。嫌な予感がする……」
「そうね。さっきからずっと戦いっぱなしだものね」
ルナも見渡し、枝の隙間をじっと見つめる。
――そのとき、遠くからかすかに獣のうなり声が聞こえてきた。
「ルナ、あそこに影がいる。でもなんだか様子が変だ。何かを囲んでる……?」
目を凝らすが、絡み合う枝葉のせいで奥の様子まではよく見えない。
「誰か襲われてるのかもしれない、助けに行こう!」
「ええ!」
ルナを連れ、迷わず森の奥へ駆け出した。
近づくにつれて、耳に届く声がはっきりしてきた。
林を抜けたその先で、複数の影の狼たちが大きな犬を取り囲んでいた。犬は全身から血が滲み、四肢もふらついている。傷だらけの身体を引きずりながらも、必死に吠えて立ち向かっていた。
「あれはもしかして……!」
剣を抜き、一直線に飛び込む。
「水玉弾!!」
狼たちの頭上に大きな水の玉を生成し、一斉に落とす。ひるんだ隙に間合いを詰め、剣を振るって一匹、一匹と薙ぎ払っていく。
最後の一体を倒すと、すぐに犬のもとへ駆け寄った。犬は意識が朦朧としているようで、足元はふらつき立っているのがやっとのようだった。
「動かないで、今傷を癒すからね。天癒――」
天道で回復を施すと、徐々に目に力が戻ってくる。やがてふらりと立ち直ると、こちらを向いて息を弾ませた。
「君はもしかして、ラグのお友達のウーフ?」
「ワン!」
短く吠えては何度も尻尾を振る。
「そうらしいわね」
「やっぱりそうか。ラグが心配してたよ。君が森に入ったきり戻ってこないって」
犬――ウーフはその場で落ち着かずに吠え、何かを伝えようとしているようだった。
「そっちへ行くともっと森の奥に行っちゃうよ。ねえ、入口はあっちだよ」
声をかけてもウーフは振り返らず、足を止めることなく森の奥へと走っていく。
「何かあるのかしらね」
「そうだね。ついて行ってみよう」
追いかけるその背中からは、焦りのようなものが感じられた。
しばらく走ると視界が開け、森の奥にぽっかりと泉が現れた。だが、そこに湛えられている水は青く澄んだものではなかった。表面は紫がかって濁り、底が見えないほどに淀んでいた。
「泉……でも、なんだか……」
「ルゥ! あそこ、誰か倒れてるわ!」
ルナが指差した先、泉のほとりに小さな人影が見えた。ウーフが勢いよく駆けていく。後を追って近づくと、それは人の形をした小さな存在――まるで大きな妖精のような姿をしていた。模様の入った淡い緑色のローブを身に纏い、背中には透き通る羽がかすかに揺れている。ウーフが何度も声をかけるように吠えるが、小人は反応しない。力なく倒れ、気を失っているようだった。
「かなり消耗しているみたいだわ。ルゥ、どうする?」
「僕たちでできる限り手当しよう。ルナもお願い」
天道とルナの月魔法で癒やしの力を注ぐ。回復の合間には、水筒から少しずつ水を与え、様子を見守った。
しばらくして、小人の瞼がわずかに動いた。
「う……君たちは……」
目を開き、ゆっくりと顔を上げる。ウーフが寄り添うと、かすれた声で小さく微笑んだ。
「あぁ……君か……」
「まだあんまり喋らないほうがいいよ。すごく消耗しているみたいだ」
こちらに気がつくと、小人は身体を起こそうと細い腕を震わせる。
「うぐ……君は……。はぁ、はぁ……君に、頼みがある……」
「何かあったの?」
やさしく背を支えながら問いかける。その身体は羽のように軽かった。
「私たちの国の守り神、『メルディアーナ』が……暴走してしまって、里が壊滅状態なんだ……」
「里? もしかして、緑の里のこと?」
「あぁ、私は緑の里長のアーシェという。なんとか外へ出てきたんだが……。君から魔力の気配を感じる。君を魔法の戦士と見て……どうか、頼む……」
小人――アーシェの瞳から切実な思いが伝わってくる。
「わかった、任せて。里はどこにあるの?」
アーシェを安心させるように大きく頷く。
「すまない……。里はこの泉の奥にある結界の向こうだ。入ればすぐに大樹が見えてくる。メルディアーナはそこに……」
「この奥の大樹だね、わかった、行ってくるよ。ウーフはここでアーシェを見守っててあげて」
ウーフは力強く吠えると、アーシェのそばに身体を寄せて伏せた。
「守護水陣!!」
立ち上がると、二人を守るように水の魔法で厚めの結界を張った。
「よし、あっちか。ルナ、行こう!」
「ええ!」
ルナと共に泉の奥へと駆け出した。
泉の奥へと進むと、膜をすり抜けるような感覚と共に景色が変わった。そこに広がっていたのは、ひと目で異常とわかる光景だった。
決して美しいとは言えない、荒れ果てた森。巨木は黒く枯れ、天を衝くはずの枝はことごとく折れ伏し、骨のように垂れ下がっている。葉は茶色く萎れ、光を通すどころか、その残骸が空を覆っていた。弱々しく差し込む光が地面を薄く照らしていたが、木々の根元には朽ちた草花が散っていた。生命の気配は感じられず、ただ不気味な沈黙だけが漂っていた。
足元には紫がかった濁った水たまりが点在している。そのそばには、アーシェと同じように羽を持った小さな民たちが力なく倒れていた。
「ひどいありさまね……」
「ルナ、まずは手分けしてこの人たちの手当をしよう」
すぐに駆け寄り、ルナとともに倒れた人々に癒しの力を注いでいく。
「ありがとう……」
「水が……汚染されて……」
「メルディアーナが……!」
かすかな声で語られる断片的な言葉。声は弱々しくとも、その中に込められた想いが痛いほどに伝わってきた。
「もう大丈夫。あとは僕たちに任せて、ここでゆっくり休んでて」
里の人々の手当を終えると、里の奥にそびえる巨大な大樹に目を向けた。それは「ダーフォール火山」を遥かに超える高さを誇り、幹は雲を突き抜け、頂は遥か遠くに霞んでいた。太い幹はまるで一つの街を丸ごと呑み込むかのようだった。
「こんなの、森の外からは見えなかったよね……。結界で隠しているのかな」
呆然と見上げていると、ルナが幹の一角を指差した。
「ルゥ、あそこ! 強い魔力を感じるわ!」
示す先、大樹の大きな窪みに黒い淀みが渦を巻いていた。遠く離れていても不気味な気配が風を通して伝わり、首筋に小さく寒気が走った。
「……よし! ルナ、掴まってて! 水流顕現!」
水の足場を呼び出し、魔力の渦巻く窪みを目指して駆け上がっていった。




