第044話 風に揺らがぬ背中(3)
昼食を終え、陽に照らされた街道をしばらく歩いていると、シアニーが楽しげに声を弾ませた。
「私、行ってみたかったところがあるの! 村のお友達のお祖母様がね、よく話してくれる場所。小さい頃に見たきれいな湖があるんだって。あの丘の向こうの大きな木の麓よ!」
シアニーが指差す先には、枝を風に揺らす背の高い木が立っていた。
「うん、それじゃあ行ってみようか。ちょっと街道からは外れるけど、まだ明るいから平気かな」
「やった!」
シアニーは跳ねるように喜びながら先を進んだ。
風がやや強まり、服の裾を不規則に揺らす。シアニーは、帽子が飛ばされないようにと両手でしっかりと押さえていた。
やがて丘を登りきると、目の前にぱっと視界が開けた。広がる光景を目にして、三人そろって小さく息を呑む。
「わあ……! 見て、あれが湖よ!」
シアニーが立ち止まり、歓声を上げる。丘を超えた先に、鏡のように空と木々を映した湖が広がっていた。湖面は陽を受けて細かく揺れ、きらめく光が無数に跳ねていた。
――だが、その美しさに見惚れる間もなく、首筋に冷たい感覚が這いのぼる。
「――ッ!? シアニー、僕の後ろに!」
「えっ!? う、うん!」
突然声を張り上げたため、シアニーは戸惑っていた。だが、旅の初めに言ったことを忘れず覚えていたのか、すぐに従って背中まで駆けてくる。
上空から二体の大型の鳥の影が舞い降りてきた。威嚇しながらバサバサと翼を広げ、羽ばたきが生む風圧で辺りの草花がざわめきながら激しく揺れていた。甲高い鳴き声が空に響き渡り、その不気味な気配にシアニーがすぐ後ろで身をすくめるのが伝わってきた。
「ル、ルィン! どうしよう……!」
「大丈夫、シアニーはルナと一緒にあそこの岩陰に隠れていて。ルナ、おねがい」
ルナはすぐに頷き、シアニーの手を取った。
「任せといて! ほらシアニー、こっちよ!」
「で、でも! ルィンは……!?」
「ルゥなら平気よ!」
ルナがシアニーを岩陰へ押しやったのを確認すると、そこへ向かって片手を掲げる。
「守護水陣!!」
二人を守るように、岩の周りに水の結界を張った。
「こ、これは……?」
シアニーが透き通る壁を見上げながらそっと手を触れた。膜を挟んで声は柔らかく跳ね返り、外からの風圧を防ぐ。見た目以上に強固な守りが二人を包んだのを確認すると、岩から離れた方向へ駆けていく。
「ル、ルィン……!?」
シアニーがごくりと息を呑む気配が伝わってくる。
「さっきまであんなにやさしく笑っていたのに、な、なんだか別の人みたい……」
「そうね、ルゥは何かと戦うときはいつも真剣よ」
戦いの余波がふたりに及ばぬよう、湖畔へと走っていく。十分に距離を取ったのち、追ってくる気配を捉えて、その一体へと鋭い視線を向けた。
「雷なる一撃!!」
雷の魔力を込めて手をかざした瞬間――青白い光が弾け、空から雷が一閃する。雷光が空を裂き鳥の一体に直撃した。その体が激しく揺れて重たく地へと落ちていく。
「えっ!? 何、今の……!」
落下した影に向けて、手元から水の槍を伸ばして突き立てた。羽を震わせた影は叫び声を残し、やがて砂の如く崩れて風へと消えていった。もう一体が嘴に光を帯びさせ、疾風のような勢いで向かってくる。
小さく息を吐き、目の前に手を掲げた。
「水流顕現!!」
水の壁を生み出し、鳥の突進を防ぐ。相手が衝突し怯んだ隙を逃さず、跳躍とともに剣を振り下ろす。光にきらめく刃が鳥の影を裂き、煙のように霧散させた。
軽く息を吐き、剣を鞘に戻すと、岩陰へと顔を向ける。
「二人とも出てきていいよ。もう大丈夫」
シアニーはおそるおそる顔を出すと、ルナと一緒に小走りで近づいてくる。
「ルィン! 今のは何!?」
その瞳には驚きと尊敬の入り混じった色が浮かんでいた。
「僕には不思議な力があるんだ。でも、そのおかげでシアニーを守ることができた。だから、内緒にしていてくれる?」
「うん! わかったわ! 誰にも言わない!」
「ふふっ、ありがとう」
湖のほとりに腰を下ろし、しばらくの間、夕陽に染まる水面を見つめていた。風が湖面をなぞるたび、陽の光の波紋が広がり、赤や金色の輝きがゆらりと踊る。その光景の中に静けさが満ち、時間の流れさえも緩やかに感じられた。
「ルィンって、強かったのね」
ふいにシアニーが呟いた。
「……そんなことないよ。まだまだ、僕の目指す人たちには全然届かない。それに……僕も最初は何もできなかったんだ」
零れた声は、自然と遠くを見つめるように静かだった。
しばらくの沈黙が落ちたあと、シアニーはそっと口を開いた。
「……私ね、ルィンに嘘ついちゃった。本当はお父さんとお母さんとケンカして、家を飛び出してきちゃったの」
「そうだったんだ。どうしてケンカしちゃったの?」
謝るようにうつむくシアニーに、穏やかに問いかける。
「……私、こんな小さな村じゃなくて、大きな街に住みたいって言ったの。毎日同じことの繰り返しが退屈で、二人に『つまらなくないの?』って……。そしたら、『ここにはここの良さがあるんだ』って言われたんだけど、そのときは全然わからなくて、それで大声出しちゃったの」
シアニーは夕映えの湖に視線を落としながら、ぽつりぽつりと語る。
「でも……今日ルィンと一緒に村の外を歩いて、なんとなくわかった気がする。外の世界には知らないことがたくさんあって、知らない人もたくさんいる。私、大きな声で挨拶はしていたけれど、そのたびにドキドキしていたの。それに、さっきみたいに怖いことや不安になることもいっぱいあるんだって……」
シアニーは夕日に照らされながら、遠くの空に視線を移した。その横顔は、幼さと大人びた感情が入り混じるように揺れていた。
「村での暮らしって、たしかに退屈に感じることもあるけど、それはきっと平穏が守られてるからなのよね。刺激は少ないかもしれないけど、だからこそ安心できる場所なんだなって」
その言葉を聞きながら、同じ夕空の向こうを見つめた。
「そうだね。村の外は新鮮なことばかりだけど、僕も平穏が恋しくなって時々村に帰りたくなるよ。……それにね――」
――じゃあ明日にしましょう! 約束よ? ルィン――
「……君を見てると村の女の子のことを思い出すんだ。なんとなく君に似ててさ」
「そうなのね……その子、元気にしているかしら」
「うん、きっと――」
空を仰ぐ。心の内は、寂しげに揺れる草花とともに、夕焼けの穏やかさを映しているようだった。
シアニーは小さく息を吸い込み、何かを決めたようにすっと立ち上がった。茶色の髪が風に揺れ、赤いリボンが夕陽を照らす。
「私、帰ってお父さんとお母さんに謝るわ。子どもっぽいこと言ってごめんなさいって」
「そっか。それじゃあ日が暮れる前に村まで一緒に戻ろう」
三人で夕暮れの湖の光景をしっかりと目に焼き付けてから、もと来た道を引き返していった。シアニーの足取りは、それまでは軽やかに回る風ぐるまのようだったが、今では人々を見守りながら回り続ける国の風車のように、確かなものだった。瞳には決意が宿ったように、先ほどまでの迷いの色はもう消えていた。
辺りが薄暗くなりはじめたころ、三人は村の入り口にたどり着いた。門の内側から慌ただしい声が聞こえてくる。
「シアニーを見かけなかったか!? 朝から姿が見えなくて……!」
「ああ、あの子ったら……!」
男女が心配そうな面持ちで村人たちに声をかけてまわっていた。
その声を耳にすると、シアニーは大きく息を吸い、足を前に出した。
「お父さん! お母さん!」
振り返った二人は、シアニーの姿を見つけるなり真っ直ぐに駆け寄ってきた。
「シアニー!! 村の外にいたのか!? 外には出るなってあれほど言っただろう――!」
「無事でよかったわ――!」
父親の声には、叱責の響きと押さえきれない安堵の色が混じっていた。母親は涙を浮かべ、シアニーの手をぎゅっと握る。
シアニーは両親を見上げ、まっすぐな眼差しを向ける。
「ごめんなさい、言いつけを破って。でも私、わかったわ。お父さんが言った通り、村には村の良さがあるって。だからもうわがまま言わないわ」
母親はやさしくシアニーの頭を撫でた。
「……私たちこそごめんなさいね。あなたの気持ちがそこまで強かったなんて、ちゃんと気づいてあげられなかったわ。今度、三人で街へ遊びに行きましょうね」
「本当! それは嬉しいわ!」
シアニーの顔がぱっと明るくなり、両親の表情にも自然と笑みが戻る。
その光景を少し離れた場所から見つめていると、シアニーが駆け寄ってくる。
「ルィン、今日は一日一緒にいてくれて、本当にありがとう。すごく新鮮で、楽しい時間だったわ! 今日のことはきっと私の中で、ずっとずっと大切な宝物になる――」
シアニーは胸に手を当て、そこに宿る高鳴りを抱きしめるように目を閉じた。
「ふふっ、楽しめたみたいでよかった」
優しく微笑み返す。
「それに……あなたが夕焼けを背にして戦っていた姿、今でも目に焼き付いているの。絶対に忘れないわ」
シアニーは目を開けると、こちらをじっと見つめてきた。
「もし、私に子どもや孫ができたら、その子たちにもお話ししていいかしら?」
「うん。それくらいならいいよ」
「本当! ありがとう! 大切に語り継ぐわ!」
シアニーのはにかんだ笑顔は、輝く湖面を思わせるような、今日一番の眩しさだった。
やがてルィンが村の外へ向けて歩き出すと、その背中をシアニーはじっと見送った。小さな背は風の中で少しずつ遠ざかっていく。その姿をいつまでも目で追いながら、シアニーの口から言葉が漏れた――
「……かっこよかったな……」
村の門を越えたところで、ルナが肩にふわりと腰かけた。
「ふふっ、ルゥ、いつの間にかこの村の英雄になってるかもね」
「英雄……? 英雄って言ったらゼフィスとか、ラースみたいな人のことを言うんでしょ。僕なんて……」
ルナはいたずらっぽく笑った。
「英雄っていうのはね、自分でなるものじゃなくて、気づいたときにはそう呼ばれているものなのよ」
「……そうなのかな」
少しだけ考えた後、ふっと笑みを浮かべた。
「それなら、いつかまたこの村に戻ってきて確かめてみよっか」
そんな言葉を交わしながら、きらめく星空に見守られ、どこまでも続く草の海の向こうへと歩を進めていった。その小さな背には、旅の始まりにはなかった、揺るがぬ静けさと芯の強さが、確かに芽吹き始めていた。




