第002話 影と悔恨
雨が降りしきる中、指輪を握りサラが消えた場所をぼーっと眺める。
「サラは、どこへ……どうすれば……っ」
先ほどまでの、絶望の中でも確かに感じられた光と暖かさは、無常にも雨に流されてしまったかのように、辺りはしんとしていた。
「……っ」
やがて唇を噛み締めながら立ち上がると、脇に散らばっていた泥だらけの荷物に気がついた。ナッツの瓶と花の種が雨に濡れて地面に転がっている。
その瞬間、恐ろしい考えが頭をよぎった。
「村は……!?」
血の気が一気に引いた。
「村も同じように襲われていたら……じいちゃんや村のみんなが……!」
頭の整理が追い付かないまま震える手で荷物を鞄に詰め込み、ぐちゃぐちゃになった鞄の中にサラの指輪をしまい込む。混乱に満ちた街を後にして村への帰り道を駆け出した。
冷たい雨が容赦なく体に打ち付ける。頬を伝う熱い涙も、叩きつける冷たい雨にすぐに掻き消されていった。息を切らしながら必死に走る。
山のふもとが見えてきた。その足はさらに速さを増す。胸の鼓動は高鳴り、息ができなくなるほどまで駆け続けた。雨でぬかるんだ足元に何度も転びそうになる。
山道に差しかかろうとしたその時、突然脇の茂みが激しく揺れた。
「――ッ!?」
ルィンは驚いて後退する。
茂みの中から飛び出してきたのは、自分と同じくらいの大きさの狼だった。だがその姿は歪んでいた。目は血のように赤く輝き、全身から黒い煙のようなものが漂っている。
「なんだよ……これ……!」
声がかすれる。狼は低く唸り声を上げ、鋭い爪を地面に突き立てながらゆっくりと近づいてくる。雨脚はさらに強まり、視界はぼやけていく。
「どいてよ! 村までもう少しなんだ――ッ!」
ルィンは焦燥感に急かされるように叫んだ。
――次の瞬間、鋭い唸り声とともに狼が飛びかかってきた。
「――ッ!」
とっさに鞄を盾にして牙を防ぐ。しかし勢いに押されて地面に倒れ込んだ。狼は牙を剥き出しにして、目の前で猛り狂っている。恐怖と疲労で足が震える。迫る牙を前に頭の中が真っ白になった。
「――ぅぁあぁああ――ッ!」
叫びながら恐怖を振り払うように狼を突き飛ばす。狼は少し距離を取ったがすぐに体勢を立て直し、低く唸り再び臨戦態勢をとった。
「はぁ、はぁっ……」
ルィンは近くに落ちていた木の棒を拾い上げ、震える足で立ち上がった。棒は雨に濡れて滑る上に手にうまく力が入らない。
――狼が動いた。左右に揺れながら狡猾に迫ってくる。ルィンは肩で息をしながら必死に捉えようとするが、狼の速さに視線は追いつかず、頭はパニックになる。
「こ、こんなの、どうしたら……っ」
ルィンは棒を身体の前で握りしめ、思わず目を閉じた。
――そのとき、「信じてる」という言葉が耳の奥にかすかに蘇った。サラの、最後の微笑みが――
「っ僕は――ッ!」
ルィンは目を開いた。奥歯を噛み締め覚悟を決め、棒を持つ手に力を込めて正面に構える。
――すると、心臓の奥底で、熱い塊が大きく脈打った。誰かのささやきが頭の中に直接響くように、“ことば”が浮かぶ――
「――っ! 水の剣――ッ!!」
ルィンは咄嗟に叫び、棒の先端へと意識を集中する。木の棒が淡く光を帯び、水の刃が形を成した。
「うぁあぁあ――ッ!」
水の長剣を、迫り来る狼に向けて無我夢中で振り回す。狼は突然の反撃に対応できず、刃は狼の胴を深く切り裂いた。苦しそうにのたうち回った末、やがて動かなくなる。そして、黒い煙をまとったその体は宙に溶けるように消えていった。
ルィンはその場にへたり込み、荒い呼吸を繰り返す。身体の芯から押し寄せる震えと疲労に、目の前の光景が現実とは思えなかった。
「はぁ、はぁっ……や、休んでる場合じゃない、じいちゃん……っ!」
力を振り絞って立ち上がり、再び走り出した。
ぬかるんだ地面に足を取られ、何度も転びそうになる。木の枝が頭を打ち、額から血が流れてくる。それでも止まらない。視界は涙と雨でぼやけていた。
そして、ついに村へとたどり着いた。
だが、目に映ったのは――変わり果てた無残な村の姿だった。
「そんな……」
地面に倒れた村人たち。崩れ落ちた家々。漂う血の匂い。足が震え、前に出るのをためらわせる。それでも、歯を食いしばり、意を決して村の中へと走り出した。
少し進んだところで、剣を握ったまま倒れているバッツの姿が目に入った。
「そんな……バッツさん……っ」
――ルィンも男の子だな。明後日にでも時間を作って一緒にやろうか――
「……っ」
その奥には、瓦礫に寄りかかるようにして倒れているリニーの姿があった。
「リニーッ!!」
ルィンの叫びは、不気味なほど静まり返った村に虚しく吸い込まれていった。急いで駆け寄り、震える手でその小さな体を支えた。
「ごほっ、ルィ……ン。無事だ……ったのね……」
リニーの声はあまりにも弱々しく、今にも途切れてしまいそうな糸のようだった。顔は青ざめ、体からは大量の血が流れている。
「――ッ!? リニー!! どうしてこんな……っ!」
ルィンは泣きそうになる気持ちを抑えながら、リニーの手を強く握った。
「ルィン、お父さんがね……ぐすっ……お母さんも……黒いのに飲まれて……! うぅっ、怖かった……!」
リニーは顔を歪め、小さな目から涙がぼろぼろと溢れ出した。
「リニーっ! 今、傷の手当てをするから! お願い、しっかりして!!」
ルィンが必死に呼びかけていると、鞄から花の種がこぼれ落ち、二人のそばに音も無く転がった。リニーの瞳が、微かに種を追った。
「お花の……種……一緒に……植えたかった……な……」
そのか細い声が、ふっと途切れた。瞳が静かに閉じられ、小さな体から最後の力が抜けていく。
「リニー……? うそだ……そんな……リニー――ッ!!」
ルィンはまだほのかに温かい小さな手を両手で包み込むように強く握りしめた。けれど、無情に降り注ぐ雨がそのかすかな体温さえも急速に奪っていく。
――明日にしましょう! 約束よ? ルィン――
冷たい雨が降り続け、リニーの頬を、そしてその手に顔をうずめるルィンの背を、ひたすらに濡らしていった。




