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幻想水月物語  作者: 安良木 響花
出逢と別れ編
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第001話 夕暮れの約束

「――う、ん……」


 気がつくと僕は尻餅をついており、先ほどの少女がこちらを心配そうに覗き込んでいた。


「だ、大丈夫?」


 しばらくぼーっとしていたが、はっとして我に返り、頭を振る。何度か瞬きするうちに、状況を思い出した。


「あ、うん。なんかくらっとしちゃって……えっと、探してたのってこの指輪?」


 立ち上がって指輪を差し出すと、少女の瞳にぱっと光が戻り、ほっとしたように息を吐いた。


「ええ、これだわ。ありがとう……あの、名前、聞いてもいい?」

「うん、僕はルィン。君は?」

「わたしはサラ。ほんとうにありがとう、ルィン」


 白いワンピースに包まれたその姿はどこか異国的で、街では見たことのない雰囲気をまとっていた。


「ねぇルィン、わたしこの街のこと何も知らないの。案内を頼んでもいい?」


 少し寂しげな視線に、迷わず頷いた。


「うん、いいよ! それじゃあ、あっちの方はもう見た?」


 僕たちは並んで歩き出した。

 市場の通りをおしゃべりしながらあちこち見てまわる。色とりどりの布が風に揺れ、遠くから楽器の音が聞こえてくる。道端には花の飾りや小さなガラス細工の小物が並び、光を受けてきらきらと輝いている。


「わぁ……きれいね」


 サラの瞳がそのたび踊るように揺れて、見慣れた街が少しだけ新しく見えた。その姿を見ているだけで、こっちもなんだか心が弾んだ。


「ルィンっていくつなの?」

「僕? 今年で十歳だよ。サラは?」

「わたしも十歳! ふふっ、一緒だね!」


 サラは花が咲いたように微笑むと、すたすたと小走りで隣に並んだ。


「ねぇルィン、これすごくおいしそう!」

「ここのパン屋さんは、焼きたてのクロワッサンが有名なんだよ」

「パン……くろわっさん……うふふ、名前もかわいいのね」


 サラは首を傾げて小さく微笑んだ。



 市場を歩き回った後、休憩のために広場の噴水に腰を下ろし、二人で並んで水飴を舐めていたとき。周りでは水が跳ねる音と人々の話し声が入り混じり、穏やかな時が流れていた。どちらからともなく言葉を止めて、しばらくの間ただ街の音を聞いていた。


「ルィンって夢を見たりする?」

「夢?」


 僕はサラの唐突な質問にきょとんとした。


「うん、わたしは知らない風景をよく見るの。大きなお城、知らない街」


 ザザッ――


「それから、知らない人。最近見る人はね、顔が見えそうになると目が覚めちゃうの」


 ザッ――


 サラの言葉の途中で、頭の中で砂利を踏みしめたような雑音が走った。それと同時に、僕の知らない景色の断片が、頭の中にフラッシュバックしてくる。


「ルィンはどんな夢を見る? ……ルィン?」

「――あっ、うん」


 サラの呼びかけで意識を戻し、質問の答えを考える。


「……うーん、あんまり覚えてないことが多いけど……最近は僕も同じ夢ばっかり見てる気がするんだ」

「そうなの? どんな夢?」


 サラの金色の瞳が興味深げにこちらを見る。


「……僕も、大きなお城と、その周りの街。それから……女の人。僕も顔が見えないんだ」


 その言葉に、サラは目を丸くした。


「えっ、わたしの夢とそっくり。不思議ね」

「……そういえばその女の人、どことなく君に似ている気がするかも」


 どこか物憂げな背中、長い銀色の髪――サラは夢の人物と一致する点が多かった。


「そうなの?」

「うん、でも大人の人だったから、ちょっと違うかな。でも変だよね、僕たちこうして会うのは初めてなのに」


 その言葉に、サラは空を仰ぎ見た。


「……あのね、わたしときどき思うの。これは夢なのか、記憶なのかって。……そう……今も、これはもしかしたら夢なのかもしれない、って――」


 サラは賑やかな街をじっと見つめ、消え入るような声で呟いた。

 言葉の意味はわからなかったが、なぜだかその声は少しだけさびしく聞こえた――。



 歩きながらおしゃべりを続けていると、サラの足がふいに止まった。露天に並ぶ花の耳飾りをじっと見つめている。

 その横顔を見てふと思いつき、店主にサラの見ていた耳飾りを指さして声をかけた。会計を済ませて手のひらに載せ、サラにそっと差し出す。


「初めてこの街へ来た記念に。受け取ってもらえる?」


 サラは一瞬ためらったが、小さく頷いてそれを受け取り、そっと耳に添えた。


「ありがとう、ルィン。ふふっ、うれしいわ」


 そう言ってこちらを向いた表情は照れくさそうで、でも、今日一番の笑顔だった。風に揺れる耳飾りとその笑顔が、心の奥に静かに残った。



 ふと立ち寄った屋台では精巧な機械仕掛けの道具が並べられていた。歯車が複雑に組み合わさり滑らかに動く様子は、見ているだけで面白かった。サラも目を輝かせながらひとつひとつをじっくり眺めていた。


「ルィン、これは何をするもの?」


 サラが小鳥の置物を指差す。


「これはおもちゃだよ。ゼンマイを巻くと羽ばたいて飛ぶんだ。おじさん、少し試して見せてもいい?」


 店主がうなずくのを確認し、ゼンマイを巻きそっと鳥を放った。小さな羽がパタパタと動き、鳥は空中をふわりと旋回する。


「わぁっ……!」


 サラの口から小さな歓声がこぼれた。


「すごい! こんなの初めて見たわ! わたしの国ではこういう仕掛けのおもちゃはなかったの。魔法で似たようなことはできるけど……こんなに小さくて繊細で、複雑な動きをするものは見たことがないわ!」

「……え? 魔法?」


 その一言で、ふわりと漂っていた柔らかな空気が変わった気がした。まるで夢から一歩だけ現実に戻されたようだった。


「サラの国には、魔法があるの……?」

「うん、普段そんなに使うことはないんだけどね」


 サラは鳥の動きを目で追いながら変わらない口調で頷いた。


 「魔法」という言葉がこんなにも自然に口にされることに戸惑った。じいちゃんから「魔法のことは秘密にしなくてはいけない」と教えられてきたため、魔法の話をこんな風に誰かとする日が来るなんて思ってもみなかった。


「サラも……魔法、使えるの?」


 サラの返事を待つあいだ、心臓の音だけが胸に響いて、時が止まったようだった。


「うん、でも必要なときだけよ。わたしも使い方を間違えると先生に叱られちゃうの」


 その言葉に僕は呼吸をするのも忘れて立ち尽くした。心臓が大きく跳ねる。自分と同じように魔法を持つ子が、こんなにも近くにいる――。今まで僕一人だけだと思っていたのに、それが――。


「ルィンは?」


 突然問い返されて言葉に詰まった。じいちゃんとの約束が頭に浮かぶ――。言ってはいけない。でも、サラは魔法を知っている――言いたい。秘密を話してしまいたい。二つの想いが喉の奥でぶつかり合い、息が詰まる。

 僕はゴクリと乾いた唾を飲み込み、サラの瞳を見つめ返した。そのまっすぐな視線に、奥底に秘めていた気持ちが、ふと零れ落ちた。


「……僕にも、ちょっとだけ、不思議な力があるんだ。じいちゃんには魔法だって言われたけど……僕は、まだよくわかってなくて……」


 そう告げるとサラはやさしく微笑んだ。


「そうなんだ、ルィンも魔法が使えるのね」


 サラのあまりにも自然な声に、僕はどうしても堪えきれなくなった。


「――サラ、今度きみの国へ連れていってよ! じいちゃんには秘密にしろって言われてるけど、魔法のことをもっとよく知りたいんだ!」


 思わず身を乗り出して言うと、サラは目を丸くしてふふっと笑った。


「うん……きっと遊びに来て。みんな喜ぶと思うわ」

「やった! サラの家にはどんな人がいるの?」

「そうね……お父さんとお母さんがいて、あと弟がいるの。わたしが失敗してもいつもみんな笑ってくれるのよ、ふふっ」


 サラの表情は柔らかく、穏やかな木漏れ日のようだった。


「弟のシンはずっとわたしについて来てかわいいのよ。あと、先生もいるの。ちょっと厳しいけど、すごくやさしい人」


 サラはふと空を見上げた。その瞳にわずかな影が差した気がした。


「……今ごろ、みんな心配してるかな」


 サラは遠くを見つめるような表情になった。自分ではどうすることもできない遠い場所を想っているように見えて、僕はどう返していいか分からなかった。


「サラ……」


 言葉を探していると、サラはふっと表情を緩めてこちらを見た。


「ねぇ、今度はルィンの村も案内してね!」

「……うん! じいちゃんも喜ぶと思う!」


 そのあどけない笑顔に胸がじんわりとあたたかくなった。先ほどまでの曇った表情が嘘のように明るく、思わずつられて笑みがこぼれた。



 日が傾き、空がオレンジ色に染まり始める。市場の喧騒が徐々に静まり、街は夕焼けに包まれていった。

 サラは夕日に目を向けた。金色の瞳が赤く染まり、宝石のように輝いている。


「夕日って、こんなに綺麗だったんだね……」


 その声には、どこか嬉しさと寂しさを含んだような響きが混じっていた。

 ――そのとき、本来の用事を思い出し、僕は弾かれたように顔を上げた。


「……サラ、ごめん、僕そろそろ帰らなきゃ。じいちゃんが待ってるんだ」

「そっか……。また会える? ルィン」


 僕は迷わず頷き、名残惜しさを振り払うように笑顔を見せた。


「うん、今度はもっと夕日がきれいに見える場所を紹介するね。村のはずれにあるんだ」

「本当! 約束よ?」

「うん、約束する」


 明るい夕日に照らされる中、そう約束を交わした、そのとき――



 ――周囲に突如異変が起こり始めた。


 空の色がにじむように失われ、オレンジが灰色に塗り替えられていく。夕焼けの温かさがすっと引き、辺りに冷たい風が吹いた。不吉な気配が街を覆い尽くす。 楽しげだった人々のざわめきが、瞬く間に恐怖の悲鳴へと裏返った。


「な、なに……?」


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