第002話 影と悔恨
空が突然、不気味なほど暗くなった。先ほどまで夕日が輝いていた美しい空は、一瞬で灰色の闇に包まれた。まるで巨大な何かが空を覆い隠したように光が遮られている。
ルィンとサラは思わず息をのんで空を見上げた。
「いや……そんな……」
「あれは……!?」
指差す先では黒い渦が静かに回転しながら徐々に広がっていく。渦からは粘土のような影の塊がぼたぼたと滴り落ちてくる。おぞましく蠢くそれは、まるで意思を持つ生き物のように、建物や地面を侵食していく。
街ではつい先ほどまで笑い声が響き、果物やパンの香りが漂っていた。人々は屋台の前で談笑し、子どもたちがはしゃいでいた。
だが今、そのすべてが闇に呑まれていく。黒い影に触れた建物は音を立てて崩れ落ち、立ち尽くしていた人々も次々と影にのまれていった。笑い声は悲鳴に、温かな空気は冷たい闇に変わっていく。
「サラ! 逃げよう……!」
ルィンはサラの手を握った。サラも震える手で握り返す。影の雨を避けながら二人は街の外れへと駆け出した。
サラの手を引き、全力で、それでいてサラの足元を気にしながら、必死に走る。背後では家屋の崩れる音が響き渡り、目の前では影に飲み込まれる人々が悲鳴をあげている。想像を絶する光景に、胸の奥から泣き出したくなる気持ちがあふれてくる。けれど、それを無理やり押さえ込み、無我夢中で走った。ルィンは決して手を離さなかった。
それでも影の勢いは衰えず、ついに進路を塞がれる。二人は壁際に追い込まれていた。
「もう……ニゲラレナイ……」
低く、頭に直接響くような重たい声が影の中から滲み出るように響いてくる。ルィンはサラの手の震えが大きくなるのに気づいた。
「ルィン、どうしよう……!」
「大丈夫、僕が守る……!」
サラの前に立ちふさがったものの、ルィン自身も震えていた。それでも逃げ出したい気持ちを必死に押さえつけ、後ろのサラを守ろうと決意を固める。
「僕が食い止めるから! サラは隙を見て逃げて!」
「そんな……! でも、ルィンも一緒に……!」
拳を握り、深呼吸して心を落ち着かせる。周囲を見渡すが武器になりそうなものはない。
「うまくいくかわからないけど、やるしかない……!」
脳裏に村の川辺でひとり練習していた“ごっこ遊び”の記憶がよぎる。右手に集中すると冷たく澄んだ水が現れ、渦を巻いて刃の形へと変化し腕を包み込んだ。
そのまま迫り来る影へと勢いよく水の刃を振るう。
切り裂かれた影は動きが鈍り、一時的に退けられるものの、すぐにまた集まり次から次へと襲いかかってくる。
「くそっ……!」
必死に刃を振るい続けるが、戦いの経験などないルィンの動きは拙く、がむしゃらに腕を振り回すことしかできなかった。焦りばかりが募っていく中で、腕に力が入らなくなり体力も限界に近づいていた。足が震え、頭の中は真っ白になる。
「このっ……! うわっ!」
大きく振りかぶった瞬間、足を滑らせて転倒した。すぐに黒い影が包囲するように押し寄せてくる。
「ルィンっ!」
――その時、サラの叫びとともに背後からまばゆい光が放たれた。同時にルィンの周囲に光が広がり、影たちが一斉に距離を取る。
振り返ると、サラの体が金色の光を放っていた。まるで月の光を宿したかのような柔らかな輝きが身体を包み、指にはあの指輪が脈打つように光を灯している。
「ルィン! わたしも戦う!」
サラが震えながらも力強い声で叫ぶ。するとルィンの身体が淡く輝き、傷ついた体が癒えていった。
「これは……」
みるみるうちに傷がふさがり、疲労も消えていく。
光を纏ったサラの姿に見惚れそうになるが、すぐに我に返り立ち上がった。
「話はあとにしよう! まずはこれを乗り越えなきゃ!」
「うん!」
光に包まれた体は驚くほど軽く、動きも素早くなっていた。ルィンは水の刃を振るって次々と影を斬り裂いていく。サラもすぐ後ろで光の球を放ち、影を一つひとつ消し飛ばしていった。ルィンが押し寄せる影を食い止め、負傷すればすかさずサラが癒やしの光を飛ばす――言葉を交わさずとも、自然に互いの存在を感じ取っていた。その日初めて出会ったはずなのに、まるで昔から一緒にいたような感覚だった。
だが、影の数は尽きることがなく、次々と湧き上がってくる。しだいに影たちは二人の攻撃に順応し始め、ルィンの刃はかわされるようになり、サラの光も次第に力を失っていった。
「どうすれば……!」
「きゃぁああッ!」
振り返ると、サラが影に捕らわれていた。必死に振り払おうとするがその体は闇に沈みつつある。
「サラッ!」
ルィンは全力で駆け出し手を伸ばす。サラも手を伸ばして応える。しかし、距離は縮まりそうで縮まらない。まるで見えない壁に二人の手が遮られているようだった。
ルィンの指先がサラに届きかけたそのとき――サラの指から指輪がこぼれ落ち、キンという音を立てて地面に落ちた。
――次の瞬間、サラの腕は闇に飲み込まれていった。
「ルィン……助けて……!」
届きそうで届かない、どうにもできない無力感が胸に広がり、叫びが喉の奥で弾けそうになる。張り裂けそうな胸の内にどうしようもない焦りが広がっていく。心の底から声にならない想いがこみ上げ、ついにあふれた。
「サラッ! 絶対行くから――! 必ず助けるから、待ってて……!」
その言葉にサラの瞳がわずかに揺れた。心の揺れを映すように耳飾りがきらめく。
「ルィン、ありがとう……信じてる。きっと来てくれるって――」
その言葉を最後に、サラは影の中へと消えていった。最後までルィンを見つめ、涙を浮かべた瞳にかすかな微笑みを浮かべながら――
「サラッ!!」
周囲の影は地面に溶けていき、上空の渦も天へ吸い込まれるように消えていった。
深い静寂が訪れ、残されたのはサラの「信じてる」という言葉だけだった。
――どれだけ時間が経ったのか分からなかった。
街は静まり返り、誰かのすすり泣きが遠くに聞こえる。周囲には崩れた瓦礫と影に呑まれた人々の痕跡が広がっていた。乾いた風が吹き抜け、血の匂い混じりの埃が辺りを包む。
空からぽつりと一粒の雫が頬に落ちた。ルィンは地面に膝をつき、サラの残した指輪を拾い上げた。
「……っ」
堰を切ったように涙が溢れ、ルィンはその場に崩れ落ちた。
「何が魔法だ……何が守るだ……! 僕は……僕は何もできなかった……!」
拳が地面を叩く音が虚しく夜に響く。冷たい風が吹き抜け、頬を伝う涙が足元を濡らしていく。空から落ちる雫はやがて数を増し、雨音が涙と混ざり合って暗い夜空に溶けていった。
雲の向こうでは月がぼんやりと輝き、その光はどこか寂しげで、遠い場所からルィンを静かに見守っているようだった。