第010話 小さな光
それからルィンが滝に通い詰める日々が続いた。
体力が尽きるまで来る日も来る日も滝を斬りつける。だが、いくらたっても滝には傷一つ付けられなかった。焦りと不安が胸を締めつけていく。
しかし、修行の日々はただ単調なものではなかった。毎晩のようにダンルークや里の人々と食卓を囲む。皆穏やかで優しく、ルィンを温かく迎えてくれた。川魚や海藻、色とりどりの果物。初めて見るものばかりの食卓に目を輝かせる。
「ふーん、あなた“月”なのね」
「あなたは“水”ね。まぁ青の里だものね。ここは何がおいしいのかしら」
少し離れたところでルナと水の妖精が話している声が聞こえてくる。
ルィンは食事をしながらダンルークに尋ねた。
「お父さん、この里の人たちはみんな魔法を使えるの?」
「ああ、そうだ。青の民は皆、水との繋がりを感じ、その力を借りて生きている」
ダンルークは穏やかな声音で続けた。
「水は生命の源であり、すべてを繋ぐもの。私たちは水の精霊に感謝し、敬意を払って生きているのだ」
この里の人々にとって水はただの資源ではない。寄り添い、語り合い、ともに生きるもの。ルィンにはダンルークの言葉の奥に、長い年月をかけて築かれた青の民の誇りが垣間見えた。
ダンルークはさらに世界のことも教えてくれた。
「この大陸には五つの国がある。水の国、炎の国、雷の国、風の国、そして大地の国。それぞれが異なる属性を信仰し、独自の文化を築いている」
「五つの国……」
この世界には自分の知らない土地がまだまだ広がっている。地図も持たずに見上げる空が、ほんの一部しか映していなかったことに改めて気づかされた。
「他にも月属性があるって、ルナが言ってたけど……」
「ああ、他にも光、闇、空、そして月の国があるはずだが、それらがどこにあるのかは私も知らない。おそらく大陸の外なのだろう」
「そんなに国があるんだ……」
父でも知らない世界がある――大きく頼もしいと思っていた背中にも、届かない未知の領域があることに驚かされる。
「……魔法のことは人には話さないほうがいいの?」
祖父の言葉を思い出し、ルィンはダンルークに尋ねてみた。
「そうだな……。魔法は今や失われた力とされ、世界ではおとぎ話で語られる程度の忘れ去られたものだ。軽々しく他人に見せないほうが賢明だろう。我々青の民もこうして森の奥深くで結界を張り、ひっそりと暮らしているくらいだからな」
「そっか……。でも僕、自分と同じ魔法を使う人たちに会えてなんだか少しほっとした」
その言葉にダンルークは穏やかに微笑んだ。
「ふっ、そうか。ルィン、ここはもう一つのお前の故郷だ。安心していい。セルシアのことは残念だが、お前とこうして再会できたこと、本当に嬉しく思う」
ダンルークはルィンの頭に手を置いた。大きな手に包まれ、温もりと力強さが伝わってくる。その感触にルィンの胸がじんわりとあたたかくなった。
――修行十日目。
滝を前にしたルィンは大きな丸太の上に腰を下ろし、途方に暮れていた。
「大変そうね、ルゥ」
果物の欠片を持ったルナが、隣にふわりと座る。
「ほんとに、どうしたらいいんだろう……」
滝壺に響く轟音の中、ルィンはうなだれていた。
その様子を少し離れた木陰からそっと覗き込む小さな気配があった。
ルィンが気配に気づいて振り返ると、小さな少女が慌てて顔を隠す。しばらくするとまたそっと覗いてくる。
「君は、里の子?」
「うん」
優しく声をかけると金髪を短く束ねた少女がとことこと歩み寄ってきた。背格好からして自分より一、二歳年下だろうかとルィンは思った。
「あのね、お父さんが様子を見てきなさいって」
「お父さん……? もしかして、里長の?」
「うん」
その言葉で、少女が自分の妹なのだと気づいた。
「君の名前は?」
「ルルア」
「ルルア、僕はルィン」
「知ってる。お父さんから聞いた」
少女――ルルアはじっとルィンを見つめる。まるで水底から光をのぞかせるようなその青い瞳は、わずかな好奇心の色が揺れていた。
「あのね、さっき見てたんだけど、もうちょっと気持ちを込めなきゃだめなんだと思う」
「気持ち?」
ルィンが首をかしげると、ルルアは頷いた。
「うん。お父さんが教えてくれるの。魔法を使うときは“星の気持ち”を考えなさいって」
「星の気持ち……って、ルルアも魔法を使えるの?」
「使えるよ。みる?」
そう言ってルルアは滝壺の前に立つ。
両手を合わせ、体の前に高く掲げ、深く呼吸を整える。轟々と響いていた滝の音がどこか遠くに消えていくように感じた。空気が張り詰め、世界が一瞬だけ息を潜めたような静寂が落ちる。周囲の気配がすっと引いて、ただルルアの呼吸だけが響く。集中しきったその瞳はまるで水面のように澄みきっていた。
「水流刃!! えいっ!」
その瞬間、滝に轟音が響く。水色に輝く巨大な刃――あるいは柱のような光が放たれ、滝を真っ二つに切り裂いた。
「……」
言葉を失い、ルィンはその光景を見つめる。
「こんなかんじ」
「……はは、すごいや」
割れた滝を見上げ、呆然と呟いた。
「ルルアはすごい魔法使いなんだね……」
「ううん、里のみんなはもっとすごいよ。お父さんはこれくらい指一本でできる」
それを聞いて、再び焦りが胸に戻ってくる。
「ルルア、よかったらコツを教えてくれない? “星の気持ち”ってどういうこと?」
「うーん」
ルルアは首をかしげる。その仕草は幼さを残していてどこか愛らしかった。
「ルルアは目をつむって星にお願いするの。“ちからを貸して”って。そうすると体の中の力が強くなるのを感じるの」
「星にお願い……星って空の星のこと?」
「ちがう。この世界そのもののこと。だいち」
ルルアは地面を指差す。
「星の気持ち……」
ルィンはその言葉を頭の中で繰り返しながら、ゆっくりと滝の前に立った。目を閉じ、深く息を吸う。
土のぬくもり、水の匂い、風のそよぎ――
すべてを感じようと努めるが、何も起こらなかった。
もう一度意識を集中する。目を閉じ、胸に手を当てる。
「……お願い。僕に少しだけでいい。力を貸して――」
――その瞬間、足元からごくわずかな脈動が伝わってきた。何かに触れられた気がした。だが、それはすぐに途切れてしまう。
再び呼吸を整え、感覚を研ぎ澄ませる。意識を“星”に向けて集中し、何度も、繰り返し心の奥底から念じた。
すると、一瞬だけ右手に集めた水の気配がほんのわずかに揺らめいた。魔法を使おうとすると頭に浮かぶ“ことば”の輪郭が、いつもよりはっきりと感じられたような気がした。
「――! 水刃!! はぁっ!!」
そのまま思い切って滝へと振るう。
――水の壁がかすかに裂ける音。ほんの一部だが確かに切り裂けた。
「っ、今の……!」
「ルゥ! 今ちょっとだけ、いい感じだったんじゃない!?」
すぐそばでルナが弾むように声を上げた。
「やった! ありがとう、ルルア! 少しだけコツがわかったかも!」
「ん、その調子。がんばって」
ルルアは小さく微笑んだ。ルルアの言葉に背中を押され、ルィンは再び滝に向き合った。
「星の気持ち」を胸に、丁寧に、力を込めて――水の刃を振るう。