第001話 夕暮れの約束
水がきらめいた
空は青く、風はやわらかく、今日も村は静かだった
――少なくとも、そのときはそう思っていた
僕の胸の奥では、ずっと何かが揺れていた
この力のこと
誰にも言えない、魔法のこと――
◇
「ルィン、薪割りが終わったら洗濯も頼む、すまんのう」
「わかった! じいちゃんはゆっくり休んでて!」
穏やかな日差しが、色あせたベンチに腰掛ける祖父の白髪を照らしている。そよ風が草花を揺らし、どこからか鳥の囀りが聞こえる。
すべてがいつも通りで、だからこそ特別だった。
薪を運び終えて洗濯物を抱える。明るい金髪が陽に透けて揺れた。
川辺に着くと水面がきらきらと輝いていた。太陽の光を跳ね返し、まるで無数の小さな星が散っているようだった。
布を濡らしながらふと顔を上げ、周りに誰もいないことを確かめる。
そして、水の上にそっと手をかざした。
「ちょっとだけ……」
意識を手先に集中させると、心の奥底から“ことば”が浮かんできた。いつだってそうだ。
「水花の舞い」
言葉とともに手に力を込めると、指先から水が音もなく立ち上がった。掌の上で渦を巻き、小さな花のかたちをつくって空へと舞い上がった。
まるで夢の中の一瞬を掬い上げたような、そんな美しさだった。鳥たちが惹かれるように旋回し、空に囀りが響く。
「ふふっ」
思わず微笑みが漏れた。
僕には不思議な力がある。物心がついたときにはもう使えていた。
じいちゃんはこれを「魔法」と言った。だけど、なぜ僕だけが使えるのかその理由は教えてくれない。
「村のみんなには秘密にしておきなさい」
優しく言われるたびに胸の奥に小さな疑問が沈んでいった。
でも、答えを急ごうとは思わなかった。
ただ今は――こうして水と遊べることが嬉しかった。
「ルィン、今日は街へ行くんでしょ?」
川からの帰り道、小さな足音が近づいてきた。
「うん、薬草を売りに行くんだ。じいちゃんの好きなナッツも買ってくるよ。リニーも何かいる?」
足音の主――リニーはぱぁっと目を輝かせた。
「今日はお花の種が欲しいわ! お庭に植えたいの!」
「花の種か。探してみるね。でもバッツさんにはちゃんと言っておくんだよ?」
「もちろん! 帰ってきたら一緒に植えてくれる?」
「いいよ、でも、じいちゃんとの家の用事が先だけどね」
「ふふっ、分かってる!」
リニーは村長の娘で、この村に子どもはふたりしかいなかった。
他愛もない会話が何よりも大切に思えた。
家に戻る途中、隣の畑で土をならしていた男性――バッツがこちらに気づいて手を止めた。たくましい腕を腰にあてながらにこやかに振り向く。
「ルィン、気をつけて行くんだぞ。いつもリニーがわがまま言ってすまんな」
「気にしないで、僕が勝手にあげてるだけだから」
「ははっ、そうか、ありがとうな」
バッツは笑って畑仕事に戻った。口数は少ないがいつもあたたかな人だった。
その日は半月ぶりに街へ行く日だった。
支度を済ませると、家の前で祖父がいつものように見送ってくれた。
「ルィンももう十歳か。すっかりしっかり者になったな」
「ふふ、まだまだじいちゃんには敵わないよ」
「はっはっは!」
大きな手で頭をくしゃりと撫でられた。
「気をつけてな。今日は特製のシチューを作って待っているよ」
「うん! 楽しみにしてるね!」
ルィンは笑顔で頷く。祖父のシチューは大好物だった。
山道を歩きながらふと後ろを振り返った。木々の間から見えるいつもの村の景色。また帰ってこられるって、当たり前のように信じていた。
あの場所に帰ること――その意味を後になってようやく知ることになる。
街に着く頃には太陽は少しだけ傾き始めていた。
市場に近づくとパンの焼ける香ばしい匂いが風にのってとんできた。甘い果物と香草の香りが混じり、ざわめく声と笑い声が溢れていた。知らない人の声、売り子の呼び込み、馬車の軋む音。静かな村とはまるで違う賑やかな音と色が広がっていて、歩くたびに胸が弾んだ。
「ん? あそこ、なんだか騒がしい……?」
ふと通りの一角で人だかりができているのが見えた。何かを囲むようにざわめきが広がっていた。
近づいてみると、銀色の髪の少女がひとり困ったように立ち尽くしていた。目元には涙が浮かび、何かを探しているようだった。
「どうしたの?」
声をかけると少女が顔を上げてこちらを見る。
「……大切なものを落としちゃって……指輪なんだけど、見当たらなくて」
「僕も探すよ」
市場の雑踏の中を駆け回り、やがて屋台の足元に落ちていた指輪を見つけた。日差しを浴びてきらっと金色に輝き、その眩い美しさに目を奪われた。一瞬、吸い込まれるような感覚に陥ったが、すぐに我に返りそっと拾い上げた。
指輪を差し出すと少女の瞳にぱっと光が戻り、ほっとしたように息を吐いた。
「ありがとう。助かったわ……あの、名前、聞いてもいい?」
「うん、僕はルィン。君は?」
「わたしはサラ。ほんとうにありがとう、ルィン」
白いワンピースに包まれたその姿はどこか異国的で、街では見たことのない雰囲気をまとっていた。
「ねぇルィン、わたしこの街のこと何も知らないの。案内を頼んでもいい?」
「うん! それじゃあ、あっちの方はもう見た?」
二人は並んで歩き出した。
市場の通りを楽しそうにあちこち見てまわる。色とりどりの布が風に揺れ、遠くから楽器の音が聞こえてくる。道端には花の飾りや小さなガラス細工の小物が並び、光を受けてきらきらと輝いている。
サラの瞳がそのたびに嬉しそうに揺れて、見慣れた街が少しだけ新しく見えた。その姿を見ているだけで、ルィンもなんだか嬉しくなった。
「ルィンっていくつなの?」
「僕? 今年で十歳だよ。サラは?」
「わたしも十歳! ふふっ、一緒だね!」
サラは嬉しそうに微笑むと、すたすたと小走りでルィンの隣に並んだ。
「ルィン、これすごくおいしそう!」
「ここのパン屋さんは、焼きたてのクロワッサンが有名なんだよ」
「パン……くろわっさん……うふふ、名前もかわいいのね」
サラは首を傾げて小さく微笑んだ。
広場の噴水に腰を下ろし、水飴を舐めながらふたりで休んでいたとき。周りでは水が跳ねる音と人々の話し声が入り混じり、穏やかな時が流れていた。どちらからともなく言葉を止めて、しばらくの間ただ街の音を聞いていた。
「ルィンって夢を見たりする?」
「夢?」
ルィンはサラの唐突な質問にきょとんとした。
「うん、わたしは知らない風景をよく見るの。知らない空、知らない声。でも……どこか懐かしいような。ルィンはどんな夢を見る?」
「うーん、あんまり覚えてないけど、遠くの知らない場所を歩いてる夢とかをたまに見るかなぁ」
サラの金色の瞳が遠くを見つめた。
「ときどき思うの。これは夢なのか、記憶なのかって。……今も、これはもしかしたら夢なのかもしれない、って――」
サラは賑やかな街をじっと見つめ、消え入るような声で呟いた。
言葉の意味はわからなかったが、なぜだかその声は少しだけさびしく聞こえた――
歩きながらおしゃべりを続けていると、サラの足がふいに止まった。露天に並ぶ花の耳飾りをじっと見つめている。
ルィンはその横顔を見てふと思いつき、店主にサラの見ていた耳飾りを指さして声をかけた。
会計を済ませて手のひらに載せ、サラにそっと差し出す。
「初めてこの街へ来た記念に。受け取ってもらえる?」
サラは一瞬ためらったが、小さく頷いてそれを受け取り、そっと耳に添えた。
「ありがとう、ルィン。ふふっ、うれしいわ」
そう言ってこちらを向いた表情は照れくさそうで、でもとても嬉しそうだった。
風に揺れる耳飾りとその笑顔が、ルィンの胸の奥に静かに残った。
ふと立ち寄った屋台では精巧な機械仕掛けの道具が並べられていた。歯車が複雑に組み合わさり滑らかに動く様子は、見ているだけでも面白かった。
サラも目を輝かせながらひとつひとつをじっくり眺めていた。
「これは何をするもの?」
サラが小鳥の置物を指差す。
「これはおもちゃだよ。ゼンマイを巻くと羽ばたいて飛ぶんだ。おじさん、少し試して見せてもいい?」
店主がうなずくのを確認して、ルィンはゼンマイを巻きそっと鳥を放った。小さな羽がパタパタと動き、鳥は空中をふわりと旋回する。
「わぁっ……!」
サラの口から思わず歓声がこぼれた。
「すごい! こんなの初めて見たわ! わたしの国ではこういう仕掛けのおもちゃはなかったの。魔法で似たようなことはできるけど……こんなに小さくて繊細で、複雑な動きをするものは見たことがないわ!」
「……え? 魔法?」
その一言で、ふわりと漂っていた柔らかな空気が変わった気がした。まるで夢から一歩だけ現実に戻されたようだった。
「サラの国には、魔法があるの……?」
「うん、使えない人もいるんだけどね」
サラは鳥の動きを目で追いながら変わらない口調で頷いた。
「魔法」という言葉がこんなにも自然に口にされることにルィンは戸惑った。祖父から「魔法のことは秘密にしなくてはいけない」と教えられてきたため、魔法の話をこんな風に誰かとする日が来るなんて思ってもみなかった。
「サラも……魔法、使えるの?」
サラの返事を待つあいだ、心臓の音だけが胸に響いて、時が止まったようだった。
「うん、でも必要なときだけよ。わたしも使い方を間違えると先生に叱られちゃうの」
その言葉にルィンの胸に衝撃が走った。
自分と同じように魔法を持つ子がこんなに近くにいる――
「ルィンは?」
突然問い返されてルィンは一瞬言葉に詰まった。祖父との約束が頭に浮かぶ――
でも、サラのまっすぐな瞳に、胸の奥にしまっていた気持ちがふと零れ落ちた。
「――僕にも、ちょっとだけ、不思議な力があるんだ。じいちゃんには魔法だって言われたけど……僕は、まだよくわかってなくて……」
そう告げるとサラはやさしく微笑んだ。
「そうなんだ、ルィンも魔法を使えるのね」
サラのあまりにも自然な声に、ルィンはどうしても堪えきれなくなった。
「――サラ、今度きみの国へ連れていってよ! じいちゃんには秘密にしろって言われてるけど、魔法のことをもっとよく知りたいんだ!」
身を乗り出して言うルィンに、サラは目を丸くしてふふっと笑った。
「うん……きっと遊びに来て。みんな喜ぶと思うわ」
「やった! サラの家にはどんな人がいるの?」
「そうね……お父さんとお母さんがいて、あと弟がいるの。わたしが失敗してもみんないつも笑ってくれるのよ、ふふっ」
サラの表情は柔らかく嬉しそうだった。
「弟のシンはずっとわたしについて来てかわいいのよ。あと、先生もいるの。ちょっと厳しいけど、すごくやさしい人」
サラはふと空を見上げた。その瞳にわずかな陰が差した気がした。
「……今ごろ、みんな心配してるかな」
一瞬、サラは何か遠くを見つめるような表情になった。
ルィンは自分ではどうすることもできない遠い場所を想っているように思えて、どう返していいか分からなかった。
ルィンが言葉を探していると、サラはふっと表情を緩めてこちらを見た。
「ねぇ、今度はルィンの村も案内してね!」
「うん……! じいちゃんも喜ぶと思う!」
ルィンはそのあどけない笑顔に胸の奥があたたかくなるのを感じた。先ほどまでの曇った表情が嘘のように明るく、思わずつられて笑みがこぼれた。
日が傾き、空がオレンジ色に染まり始める。市場の喧騒が徐々に静まり、街は夕焼けに包まれていった。
サラは夕日に目を向けた。金色の瞳が赤く染まり、宝石のように輝いている。
「夕日って、こんなに綺麗だったんだね……」
その声にはどこか嬉しさと寂しさが混じっていた。
――そこでルィンははっとした表情をした。
「……ごめん、僕そろそろ帰らなきゃ。じいちゃんが待ってるんだ」
「そっか……また会える? ルィン」
迷わず頷き、名残惜しさを振り払うように笑顔を見せる。
「うん、今度はもっと夕日がきれいに見える場所を教えるよ。村のはずれにあるんだ」
「本当! 約束よ?」
「うん、約束する」
明るい夕日に照らされる中、ふたりがそう約束を交わした、そのとき――
――周囲に突如異変が起こり始めた。
空の色がにじむように失われ、オレンジが灰色に塗り替えられていく。夕焼けの温かさがすっと引き、辺りに冷たい風が吹いた。不吉な気配が街を包み、人々のざわめきが悲鳴に変わった。
「な、なに……?」
淡いひとときは終わりを告げた――