恋に溺れた聖女さま
四方を海に囲まれた小さな島。神に守られ繁栄してきた王国、イオルシア。
神官の一族であり、自身も聖女として祈りを捧げてきた娘、ソフィアは、船首の上で手を組んだ。
「海神よ。愚かな私を、お赦しください」
小さく呟き、蒼い海へとその身を投げた。
◇
島の聖女である私、ソフィアには、恋人がいた。茶色い髪に、緑の瞳の、とても優しい人だった。聖女としての任期が終われば、結婚する予定も立っていた。
代々、聖女の祈りが島を守っているイオルシア。島で生まれた神力の強い娘は、七歳を超えた日から聖女として神殿で祈りを捧げる生活になる。
任期中は清い身であることを求められるが、十七歳となり、役目を終えれば結婚もできる。実際、私の母も、祖母も聖女だった。
引退しても神力が完全に消えることはなく、祈りによる奇跡の力は子にも受け継がれていくものだ。
歴代屈指と呼ばれた聖女の母と、神官長の父の間に生まれた私は、母を越える神力を持っていた。幼い頃から神の声を聞き、癒しの力も人より強い。
そんな私の力を見込んで、王家が縁談を持ち掛けてきたのが、聖女になる少し前。王子であるクラウスと出会ったのは、聖女になった直後だ。
少々気弱と噂されていたクラウス王子は、慣れない城に緊張していた私に、そっとスミレの花を差し出し言ってくれたのだ。
「きみと、おなじで、きれいだから」
私の紫色の瞳を見つめ、はにかむように笑った彼に、悪い印象など抱くはずもなく。
その後、文通や会食を通して、クラウスと私は親交を深め、王家と聖女という立場関係なく、互いに恋に落ちたのである。
二人で四葉のクローバーを探して栞にしたり、髪を三つ編みでお揃いにしたり。親が呆れるほど手紙を書いたし、時間があればあるだけ会いに行った。
関係は、良好だった。
とはいえ、聖女である限り、私は神のものである。神に誓いを立てる婚約式は行えないため、十七歳まで婚約内定という形を取ることとなった。
私達の関係は島では周知の事実で、お互い民から認められるべく努力も続けた。反対意見も特に出ず、婚約を心待ちに聖女の務めに励んでいたというのに。
私の十七歳の誕生日まで、あと半年。いつもと同じ、穏やかな日だと思っていた日。たった一つの知らせで、全てが、狂いはじめた。
「クラウス殿下!! ソフィア様!! お伝えしたいことがございます!!」
クラウスと二人、お茶を飲みながら半年後に控えた婚約式の話をしていた時だった。入り口にいた護衛を押し退け、陛下の使いが部屋に転がり込んできた。
酷く乱れた呼吸に、歪んだ表情。只事ではないと感じた私たちは、茶会を中断し、陛下からの言伝を聞いた。
「帝国からの、婚約打診……?」
「先程、港に軍艦が入港しまして……、その使者が言うには、トルイス帝国第五皇女を、クラウス殿下の伴侶に、と……」
トルイス帝国。大陸の大半を支配する軍事国家だと聞く。皇帝は武力による大陸制覇を目指しており、今迄イオルシアとの国交はない。
厳しい海に隔てられた島国と交流するのは、メリットよりもデメリットが多かったのだ。
イオルシア王国としても、積極的に他国と関わる理由はない。稀に漂着する船乗りに簡単な船と食料を与えて、送り返すくらいの関係だ。
「どうして急に……」
「それに、皇女を嫁がせるなんて……」
何か、裏があるとしか思えない。軍事侵攻のため、イオルシアを経由地にしたいのか。それとも目当ての交易品でもあるのか。
トルイス帝国の意図は読めないが、ひとつだけ、はっきりとわかることがある。
私はドレスの裾を握りしめ、震えそうになる喉に力を入れて、次の言葉を絞り出す。
「理由はどうあれ、断ることは、できないでしょうね……」
クラウスの肩が、小さく跳ねた。そんなに動揺を表に出しては、足を掬われてしまうわよ。そう、嗜める言葉は出なかった。
「ソフィア……」
潤んだ緑の瞳が、私を捉える。涙のせいか、酷く歪んだ私の顔が、彼の瞳に映っている。
私より一回り大きな手が、そっと私の手を包む。痛いくらいに手を握られて、私は耐えきれずに俯いた。
「僕は……」
震える声が、頭の上から落ちてくる。その続きを言わせないため、私は鋭く言い放つ。
「駄目よ」
ぽつり、ぽつりと、床に雫が落ちていく。クラウスだって、理解してない筈がないのだ。
相手は武力に長けた帝国。海を超え、軍艦が無事に辿り着いたと言うことは、この国なんて、いつでも制圧できると言うこと。
「言っては、駄目」
既に使者は、国内にいる。幾ら王宮内とはいえ、迂闊な発言はできない。王家を裏切る者はおらずとも、帝国を恐れる者はいる。
だから、こうするしか、ないのだ。
「…………ねぇ、クラウス」
もし、縁談を断ったら。もし、帝国がイオルシアを支配下に置こうとしたら。もし、戦うことになったら。
「嫌だ。…………言わないで」
島の民たちが傷付くだけではない。敗れた王族が、王子が、どうなるか、など。少し考えれば、わかることで。
一国の王子として、理解しているから、クラウスは首を横に振る。手を軽く引かれ、その胸の中に閉じ込められても。
私の意見は変わらない。
「私は」
私たちは、何も分からないほど、子供じゃなくて。でも、何かを為せるほど、大人じゃなくて。
「内定していた、婚約を。辞退させて、いただきます」
無関係ではいられない、立場があって。全てを捨てて、二人で逃げらないほど、島のことが大切なのだ。
そっと、クラウスの体を押し返す。もう、今迄の距離ではいられない。手を取り合うとも、向き合って座ることも、隣に並ぶことも、ない。
「どうか、皇女殿下を、お迎えください」
臣下の、礼をとる。一歩、後ろに引いて、頭を下げる。目線は、合わせない。二度と、あの緑の瞳を、真正面から見ることはない。
元婚約者候補が近くにいれば、皇女の不興を買うだろう。だけど、クラウス以外の相手に嫁ぐつもりはない。
「神殿にて、殿下と、この国の民たちの幸福を、祈っております」
神殿で、一生、聖女として過ごす。神職であれば、結婚はできない。皇女の誤解を招くこともないだろう。
そして、祈りを捧げ続ける。それが、私に残された、クラウスのためにできること。
「君が……」
その言葉が、最後まで発されることはない。ぐ、と視界の端に映るクラウスの拳が、強く強く、握られる。
「…………聖女ソフィア。貴女の献身に、感謝と祝福を」
返されたのは、一生を捧げると誓った神職に王族が与える言葉。私は深く、頭を下げる。
ぎりり、と何かが軋むような音。その音が、クラウスから発されたことに気付いた途端に、喉がきゅうと狭まった気がした。
それでも、互いに何も言わずに。踵を返したクラウスの足音が聞こえなくなるまで、私は頭を下げ続けていた。
その後、どうやって神殿に帰ったのか、私は全く覚えていない。
覚えているのは、聖女として、一生を神に捧げること。そして、クラウスから言葉を賜ったこと。
その二つを報告したら、お父様は私を不器用に抱きしめてくれて、お母様は髪を切ってくれた。
床に散らばった、二束の三つ編み。軽くなった頭に、肩で揃えられ首に触れる髪先。クラウスとお揃いにしていた髪型を捨てた時点で、何かが、ぷつんと切れた。
ドレスを処分し、ローブを羽織る。宝飾品は全て、神殿に納めるか、人に譲った。王宮にあった私の部屋は、客室になったと聞いた。
信仰心以外を削ぎ落とし、ただ島のため、民たちのために祈れば、色のない日々はあっという間に過ぎて。
気付けば、三ヶ月の時が経ち。私は、島で最も力を持つ聖女として、儀式に参加するため久し振りに外に出た。
今日行われるのは、二つの儀式。第一王子クラウスの、王太子への任命式と、トルイス帝国第五皇女殿下との婚約式である。
「ソフィア様。こちらに」
小さく頷き、前に出る。壇上に立った瞬間、わっと歓声が上がるが、耳に届く音は小さい。こちらに手を振る民たちも、色褪せて見える。
聖女として微笑みを浮かべながら、王冠を受け取る。儀式で王太子に授ける王冠だ。
全てが、どこか遠い世界のように感じる中で、その冠だけが現実的な重さをしていた。
「クラウス殿下ならび、ロヴィーナ皇女のご入場です」
皇女の名前は、ロヴィーナというらしい。会うのは今日が最初で最後だろうが、覚えておいた方がいいだろう。
意識して微笑みを浮かべれば、すぐに二人の姿が見えた。途端、灰色の世界に、柔らかな茶色の髪が映り込む。
クラウス。口が勝手に、その名を紡ごうとするのを押さえつけ、決まりきった文句を発する。
「聖女ソフィアが、新たなる王太子クラウスにお祝い申し上げます」
「聖女の祝福を賜り、幸せに思います」
クラウスが膝をつく。隣の皇女は王太子が頭を下げると思っていなかったのか、困惑して突っ立っている。
せめて、前日に儀式の内容くらい確認しておけばいいのに。内心呆れつつ、流れを止める訳にもいかないので無視して儀式を続ける。
「輝く王冠のような時代をつくられますよう」
「この王冠と、聖女に誓います」
金色に輝く王冠を、クラウスの頭に載せる。美しいエメラルドが嵌められた冠は、よく似合っていた。
そのエメラルドより美しい瞳を、見ることなく。私は周囲に呼びかける。
「皆様、王太子クラウスに祝福を」
空気が震えるほどの歓声が、会場を包む。続いて、婚約式を行うのだが、下の民たちには聞こえていなさそうな興奮度合いだ。
「引き続き、お二人の婚約式を執り行います」
荘厳な雰囲気で言っているが、イオルシアの婚約式は簡単だ。神の前で誓いを立てたら、それでおしまい。
「イオルシア王国、王太子クラウス。トルイス帝国、皇女ロヴィーナ。両者の神への誓いをもって、婚約を認めます」
ただし、神に対して誓いを立てるため、破ることは許されない。そのため、いくら相手を愛していても、迂闊な誓いを立てないことが常識である。
「皇女ロヴィーナを尊重することを誓います」
「王太子クラウスを愛することを誓います」
事前にお父様が説明していたはずだが、皇女は定番の失敗台詞を言ってしまった。
任命式の時といい、イオルシアの文化を真面目に学ぶ気がないことが伝わってくる。
流石に、誓いを取り消すこともできず。神が祈りを聞き届けたことを確認してから、口を開いた。
誓いを立てた今、無事ならば。クラウスを愛しているのは本当なのだろう。
クラウスは優しい。たとえ政略結婚の相手だとしても真摯に向き合い、共に過ごす時間を作ってきたのだろう。
帝国から一人、島へと来た皇女の最初の意図はともかく。自分に対するクラウスの態度に、絆された部分もありそうだ。
「神への誓いはなされました。これにて、婚約式は完了です」
島のためにも、二人のためにも。皇女がクラウスを愛しているのは、良いことだ。そう自分を納得させて、二人を送り出す。
「ロヴィーナ嬢、こちらに」
「はい。クラウス様」
嬉しそうに頬を染め、クラウスの手を取る皇女を見て。息ができないほど、胸が詰まっても。
クラウスのためには、これが一番だったのだと、遠ざかる茶色い頭と、輝く金と緑の王冠、そして皮肉な程に青い空を眺めていた。
これが、私が最後に見た、色鮮やかな景色だった。
婚約式から、たった、二ヶ月。帝国から要人を招いたパーティ前日。皇女は、クラウスを刺し殺したのだ。
「…………なぜ」
聖女として、王宮に向かったが、間に合わなかった。神殿と王宮は、少々距離がある。
もし、王宮に部屋がある頃だったら。間に合っていたのかもしれないと考えて、無駄なことだと首を横に振る。
床に広がる、黒い水たまり。真っ黒な手を隠しもせず、膝をついて泣き叫ぶ皇女。倒れているクラウスと、胸に刺さっている短剣。
彼女が殺したことは明らかで。だからこそ、私は納得できなかった。
「なぜ、殺したのですか」
帝国の望み通りだったはずだ。皇女を王太子妃として迎え入れ、軍艦だろう明日来航する船にも入港許可を出した。パーティの形式も、帝国式に合わせた。
帝国に対し、抵抗しないという姿勢を示し続けたはずだ。皇女はこのまま、王太子妃として、未来の王妃として、王国を操れる立場にいた。
なのに。睨め付ける私の視線に気が付いたのか、皇女は、どこか焦点の合わない目を私の方に向けて答えた。
「クラウス様が悪いのよ……」
あの人が、わたくしを愛してくれないから、と。皇女は、そう言った。
「尊重すると、誓ってくださったのに。わたくしは、こんなにも愛しているのに!!」
同じ熱量が返ってこない。クラウスを本気で愛した皇女は、それが耐え切れなかったのだという。
「神への誓いは、命を懸けるものなのでしょう?」
だから、責任をとってもらったの、と皇女は笑う。クラウスだけでなく、イオルシアの民の命で、自分を傷つけた罪を贖えと。
周辺国を制する帝国。その皇女としての自尊心が、彼女の行為を正当化していた。
「島を、武力制圧するのですね」
「よくわかってるじゃない。明日、お兄様たちが来るわ」
その時、クラウスに冷遇されたことを伝えれば、大義名分を得たとばかりに帝国は島を攻撃するだろう。
格下の同盟国ではなく、属国として、イオルシアを扱うために。
「貴女は、わたくしと共に、船に乗りなさい」
聖女を小舟で軍艦まで送り届け、クラウスの行為を証言しろと。そして、聖女としての力を、今後は帝国のために使えと、そう言った。
「かしこまりました」
今迄、島を守ってきたという聖女を確保するためだとしても。軍艦に迎え入れてくれるなら、都合がいい。
その日は、皇女と同じ部屋に泊まるように命じられ。私は、久し振りに王宮で過ごすこととなった。
クラウスと最後の別れができずとも、皇女から離れられずとも問題はない。皇女の部屋にも、侍女はいる。
帝国から連れてきたものだけでは足りないので、元々、王宮に勤める侍女が。
そんな彼女らに、無言で指示を出す。明日、神殿へ避難するように。侍女だけでなく、王族も、島民も、全員だ。
皇女は訝しがることもなく、付き従う私を見て満足そうだ。本当に、何も知らないのだろうと、私は小さく笑みを浮かべた。
◇
翌日。予定通り、皇女は私を連れて港へ向かった。城の抜け道を使い、人目につかぬよう港へ行けば、漕ぎ手であろう二人の男が乗った小舟があった。
促されるまま小舟に乗れば、無言で海へと進み出し、沖合にある一際大きい軍艦に到着する。
甲板で皇女を出迎えるのは、顔がよく似た皇子。私に対して、特に警戒もなく招き入れられる。
「お兄様。この人が島で最も力の強い聖女よ」
わたくしの境遇について伝えていただこうと思って、と皇女はわざとらしく視線を地面に落とした。
皇子はそんな皇女の肩を抱き、可哀想に、と思ってもないことを呟く。手だけは慰めるように動いているが、その口元が歪んでいるのが丸見えだ。
「聖女殿。どうか、妹が島でどのような扱いだったか教えてくれ」
こんな奴らのために。じわりと胸に鈍い痛みが広がるが、息が詰まることも、叫び出したくなることもない。
私は、一度だけ島を振り返り、神殿の上に掲げられた旗を見て、微笑んだ。
「勿論でございます」
軍艦は、素早く皇子の命を受けるため、密集している。最初から攻撃する気だったのか、昨晩のうちに皇女の部下が事情を伝えたのか、島の沿岸からは少し距離がある。
好都合だ。私は、ゆっくり口を開いた。
「皇女殿下は、クラウス殿下が神に誓ったにもかかわらず、皇女殿下を尊重されなかったことから、昨晩、命をもって罪を贖うことを求めました」
「当然だ。皇族である我が妹を軽視するなど、到底許容できることではない」
幾ら軽んじることが許されないとはいえ、他国の王族殺しだ。その罪は問わなければいけない。
本来ならば。
「イオルシアでは神への誓いは命懸けのもの。破ったものに命はないのでしょう?」
「その通りでございます」
しかし、皇女は婚約式での誓いを盾に、自身に罪はないと主張するつもりだ。帝国の法ではなく、イオルシアの法なのだから、クラウスが悪いと。
そう、言いたかったのだろうが。
「しかしながら、皇女殿下。一つ、失念されていることがございます」
「あら、もしかして、王族だけは適応されないなんてこと、あるのかしら?」
いえ、と首を横に振る。誓いは絶対だ。王族は免除ということはない。むしろ、王族こそ、誰より誓いを守らねばならぬ立場なのだから。
「誓いを破ったその際は、人が手を下すのではなく、神が、その手を下すのです」
「え……?」
「誓いを破った人間は、神により息絶えると同時に、顔に紋様が浮かぶのです。他国で言う、刺青のようなものでしょうか。罪を犯した証を神は示すのです」
その紋様は、誰が見ても、罪の証だとわかるようになっている。本能的に、神が与えた罰だと理解できるのだ。
私も、一度見たことがあるが、隠せるようなものではない。そして、見た事実を忘れられるようなものでもないのだ。
クラウスの顔に、紋様が浮かんでいなかったことくらい、流石に皇女も覚えているだろう。
「嘘、そんな……」
「ですので、私共は何もしません。神の行為に干渉することになりますので」
皇女によるクラウスの殺害は、イオルシアの法でも立派な罪である。本当にクラウスが皇女を軽視していたなら、神が裁きを下していたのだから。
「い、今更、何を言っても、王国の運命は変わらないのよ。もし、それが事実としても、貴女以外、信じる人なんて……」
「帝国を止められるなど、思っていません。ただ、事実を述べているだけです」
そう。帝国を止めたい訳ではない。私が説明しているのは、もっとくだらない理由によるものだ。
「王太子、クラウスは、貴女を尊重していました」
「貴女、まさか……」
ようやく、皇女は気付いたらしい。クラウスの元婚約者は、私だと。
そう、私が説明しているのは、帝国を止めるためでも、聖女として神の知識を正しく伝えたい訳でもない。
ただ、私は。クラウスの隣に立つ資格を得た彼女を、妬んでいただけだ。
「皇女殿下。貴女は本当に、愛が返ってこなかったから、クラウスを殺したのですか?」
「そ、そうよ。だって彼は、わたくしを、見てくれなかったから……」
こんな姿、到底、聖女とは思えないだろう。皇女が必死になって隠していた気持ちを、引き摺り出そうとしているのだから。
「不満に思っていたのは、本当に、彼を愛していたからですか?」
「なにを……」
自覚させたところで、何かが変わる訳ではない。でも、私は、婚約式のあの日から、その言葉を疑っていた。
「貴女が愛していたのは、彼ではなく、自分に優しい王太子では?」
「そんなこと……」
クラウスを、本当に愛しているのは、私だと主張したかった。でも、叫ぶほどの熱は胸になく。
あるのは、いつまでも続く、引きちぎられそうな痛みだけ。
「もし、駆け落ちしようと言われていたら? 愛する人さえいれば、平気だと、受け入れることはできますか?」
「それは……」
皇女の体が、震え始める。私の狙いに気付いたのだろう。そして同時に、これから自身に起こることに気付き、頭を振り乱し私の方に向かってくる。
が、しかし。気付いた時点で、思考は止められない。
「…………ぁ」
皇女の体が、がくんと崩れる。小さな音を発して、それから、皇女は何も言えなくなった。
「ロヴィーナ!! 貴様、何を!!」
「ご覧になればわかるのでは?」
私の言葉に、皇子が慌てて皇女を抱き起こす。その顔には、くすんだ色の紋様が浮かんでいる。
「彼女は自身がクラウスを愛していなかったことに気付きました。つまり、誓いを破った。だから、神が裁いたのです」
「貴様がやったのではないか?」
「まさか。聖女は神力を持ちますが、神力を使った祈りの効果は傷や毒、呪いの治療に、魔物避けくらいのものです」
後は、悪いことに巻き込まれないための加護。基本的に、聖女の力は人を傷付けられない。そういう風にできているのだ。
「ならば、ロヴィーナを治療しろ。今すぐにだ」
「死んだものを呼び戻す事は、聖女の奇跡でも不可能です」
聖女の奇跡。神力だけではなく、代償を捧げることで起こる現象。神力だけでは不可能なことも、奇跡を起こせば可能となる。
だが、死者は生き返らない。もしできるなら、クラウスを生き返らせている。
暗にそう伝えれば、皇子は少し考えた後、口を開いた。
「ならば、奇跡を見せてみろ。できなければ、貴様はこの場で処罰する」
「お好きになさってください」
結局、妹の皇女より、聖女の利用価値が気になったのだろう。薄情なことだ。そのくらいでないと、軍事主義の帝国では生き残れないのかもしれないが。
元々、私は奇跡を起こす予定だったので丁度いい。鋭い目つきで剣を向けてくる皇子を無視し、船首まで行き、そっと手を組む。
「海神よ。愚かな私を、お赦しください」
聖女の役目は、神に仕え、人々の幸福と安寧を祈り、支えること。その役目を破り、報復を望む私は、きっと聖女に相応しくなかった。
「この命を代償に、島に、イオルシアの民に仇なすものを、荒れ狂う波で近づけませんよう、お頼みもうします」
そう言って、体を海へと投げ出す。皇子が気付いても、もう遅い。その手が間にあう事はない。
本来、人を傷付ける事はない聖女の力。しかし、直接的でなければ、祈りは発動するのである。
海面が、遠くなっていく。指先が解けて泡になっていく。冷たい海水が肌を刺す。そして、辺りが暗くなる。
沈んでいるからではない。嵐が、近付いているのだ。段々薄れていく意識の中で、空が白く明滅する。
願いを聞き届けた海神が、奇跡を起こしてくれたのだ。今後、島に軍艦が来る事はない。全て、海に拒まれる。
軍艦が近いため、島にも多少被害が出るが、既に神殿に避難しているはずだ。神殿は島で一番高い位置にある。大丈夫だろう。
『誰より神に愛されながらも、恋に溺れ、その身を捧げるか』
海神の声が聞こえる。私は、ええ、と頷いた。もう体があるか、わからないけど。
本当に、溺れるほどの、恋だった。
離れて初めて気付いた。私は、クラウスがいないと、息もできない。
部屋に残った僅かなものに、神殿に訪れる民たちの言葉に、彼の残滓を探して、やっと、少しだけ空気が吸える。
苦しくて胸を掻きむしっても、空気は吸えず沈んでいくだけ。
それでも、忘れられなかった。
美しい、緑の瞳。私に向けられる、優柔不断な微笑み。ゆらゆら揺れる三つ編みと、お揃いにしてくれた、長い指。
思い出す度、苦しくなるのに。どうしても抜け出せなかった。苦しみが薄れたかと思えば、今度は世界が色を失った。
水面の向こうを見ているように、全てが、どうでも良くなったのだ。彼以外、灰色の世界。遠くに見える、鮮やかな色が、僅かに残った私の心を、支えていたのだ。
考えるのは、彼の幸せと、島の安寧だけ。だから島を守るため考えた、幾つもの案の中から、この答えを選んだ。
帝国のことが許せない。必ず、報復を果たす。でも、クラウスのために、島を守りたい。
そして、何より、クラウスがいない世界を生きるのは、耐えられない。
皇女は利用されただけ。だから、どちらがクラウスを愛しているか、教えるだけでいい。
帝国は許せない。全てを捧げてでも、島から遠ざけ二度と近付かないようにする。
その全てが、叶う手段が、これだった。
幸い、聖女は一人ではない。私が、海の外、他国からの悪意を弾けば、今迄通りの日々が訪れる。最小限の犠牲で、最大の平和が訪れる。
とても、満足だ。荒れ狂う海面を眺めながら、瞼を閉じた。
◇
四方を海に囲まれた島。神に守られ繁栄してきた国、イオルシア。とある事件から王政を廃止し、200年を迎えた節目の年。
その日、初めて祭りに参加する少女は、家族とはぐれた先で少年と出会う。
「どうしたの?」
手を差し伸べた少年の、手と顔を交互に見る少女。知らない人と喋らないよう、両親に言われたことを守っているのだ。
不安げに視線を彷徨わせる少女に、少年は小さく頷き、笑った。
「えっとね、ぼくは、クラウス。きみは?」
「ソフィア……」
「だいじょうぶ。ぼくが、いっしょにいるからね」
この辺りには詳しいんだよと、笑う少年に、少女も微笑む。
その瞬間、祭りが本格的に始まり、あちこち花吹雪が舞い始める。
「さがしにいこう。て、つなご?」
「うん」
少女は差し出された手をしっかり握って、歓声の方へと歩き始めた。