微笑の奥の棘
月読宮・書庫の一角。
夕暮れの光が障子越しに差し込み、静けさが辺りを包んでいる。竜馬は数冊の本を手に取り、ふと表紙を撫でる。
「……これなら、紫月も楽しめるかもしれないな」
そう呟いて歩き出した彼を、ふいに止める声があった。
「どこへ行くのですか、竜馬」
竜馬は足を止め、振り返った。
声の主は葵だった。彼女の眉はぴくりと動き、視線は竜馬が持つ書物に向けられている。
「紫月の部屋へ。本をお渡ししようと思いまして」
「……なぜ、わざわざあの女の元へ? 侍女に持たせればよろしいものを」
「母上」
竜馬の黒い瞳に、ほんの少しだけ影が落ちる。
「なぜ、母上はあの方にそこまで冷たいのですか?私は存じております。陰で色々と……嫌がらせをなさっているのでしょう」
葵はその場で言葉を失った。息子が、そんなことに気づいていたとは。
「紫月は……何も言わず、ただ静かに過ごしておられます。それが余計に不憫でなりません」
「竜馬……」
葵の手がわずかに伸びかけたが、竜馬は軽く礼をした。まるで葵の手を拒むようだった。
「失礼します、母上」
そう言って、背を向け書を抱えたまま廊下を進んでいく竜馬に葵は何も言えなかった。
「……私の言うことさえ、聞かなくなったのね」
葵は悔しげにそう呟き、扇を強く握った。扇の骨がぎし、と微かに鳴る。
(なぜ……どうして、あんな得体の知れない女に)
竜馬は昔から他人に強く関心を持たぬ子であることは知っていた。
控えめで、心根の優しい子。竜馬はこの月読宮の次期当主だ。
月読宮は御三家といわれる大貴族である。
そんな家にたかだか魔眼というだけのあの娘を受け入れるものか。
(私が排除しようとすればするほど……まるで、かばうように――)
無意識に唇をかんでいた。
(可哀想?守らなきゃ?あの女が哀れだと?)
葵が嫌がらせをしても、紫月は穏やかに微笑み受け流す。その瞳はこちらを馬鹿にしているようでもあった。なぜ、あの女の底知れぬ瞳に気づかない。あの紫の瞳はどこまで冷たい湖のようなのに。
(……美しい女よ、確かに。だが、その美しさが不気味なの)
漆黒の長い髪。白磁のような肌。紫水晶のような大きな瞳。淀みのない声。人の感情に流されない、あの冷えた瞳。
初めて見た時から、葵の胸に宿ったのは――「不快」だった。
(何を考えているのか分からない。笑っていながら、どこか、こちらを値踏みしている)
彼女の笑顔は柔らかい。けれど、刺さる。
嫌がらせをしても、紫月は決して怒らない。ただ、静かに、涼やかに受け流す。
だからこそ、余計に腹立たしい。
(“余裕のある女”を、演じているつもり?)
扇の縁を強く握る。骨の一片がかちりと鳴った。
(竜馬には、ちゃんとした家柄の娘を選んでほしいのに)
生まれも、血筋も確かな、家同士が結びつけば誰もが納得するような――
あんな“どこから来たとも知れぬ娘”を、月読宮に迎え入れるなど――許せる道理がない。
何より、紫月を屋敷に入れると決めたのは――伝馬だった。
(……あの人が勝手に。私には何の相談もなく)
伝馬とは数年、言葉は交わしていない。
微笑みあう夫婦を演じても、その実は空の器のようなもの。
その夫が連れてきたのが紫月だった。
魔眼だから一体なんだというのだ。
(私は月読宮なのよ!!絶対にあの女を竜馬の隣には立たせない)
あの女が微笑み一つで、竜馬の心までも攫っていく――そんな予感が胸を締めつける。