婚約という名の契約
紫月は湯の温もりを惜しむように小さく息を吐いた。
白銀の手を借りて、月読宮の袴へと袖を通す。
「白銀、和国の服は紐が多いですね……私には合わない気がします」
「そのうち慣れます。慣れるまで私がお手伝いします」
白銀の穏やかな声に、紫月はふと気づく。
彼女は「慣れるまで」と言った。
——つまり、 自分が月読宮に入るのを前提としている。
まだ決めたわけではないが、紫月は何も言わず、黙って髪をまとめる。
伝馬の「条件」を聞くまでは、決断を下すつもりはなかった。
「では、紫月様。こちらへ。伝馬様がお待ちしております」
紫月は白銀の後を追った。
「紫月ちゃん、お疲れ様! ゆっくり休めた〜?」
伝馬は奥座敷にどっかりと腰を下ろし、楽しげに手を振った。
隣には、きちんと正座した竜馬の姿。
紫月も向かいに座るが片膝を立てる。
長く天竺で過ごした彼女にとって、正座は窮屈なものだった。
そして向こうでは座る時は片膝を立てるので、紫月は特に何も気にしていなかったが、その姿は伝馬と竜馬に太々しくも映っていた。
「お陰様で旅の疲れは癒えました。ありがとうございます」
紫月は両手を合わせ、軽く合掌する。天竺での習慣がそのまま出ていた。
「それはよかったよ〜。そうそう、紫月ちゃんに息子を紹介しておこうと思ってね。僕の息子の竜馬だよ」
「初めまして、月読宮竜馬です」
竜馬はやや緊張した面持ちで、きっちりとした礼をとった。
紫月も静かに頷き、合掌する。
「紫月です。よろしくお願いいたします」
二人の挨拶が済んだところで、伝馬がニコニコと口を開いた。白銀が紫月にお茶出す。
出されたお茶を手に持ち口につける。
「さてさて、お風呂でさっぱりしたところで、改めて交渉といこうかねぇ」
「月読宮に入るという話ですね?」
その瞬間、室内の空気が一変した。
紫月が茶器を置いた刹那、霊気を一瞬だけ解放 した。
—— その一瞬だけで、全員が凍りついた。
伝馬の表情から笑みが消える。
竜馬は思わず反射的に手を動かそうとするが、身体が硬直する。
白銀は微かに肩を揺らしながら、沈黙した。
部屋中から鈍い音が響く。
伝馬が隠していた警備用式神が次々と砕け散る音だった。
それらは、本来なら「力ある妖」でも感知できぬもの。
そして、容易に破壊できるものではない。
紫月の僅か一瞬の霊気で、その十体すべてが壊れた。
「なかなか用心深いですねぇ、伝馬殿は」
紫月はくすくすと笑った。
「……すごいねぇ、紫月ちゃん」
伝馬はニヤリと笑みを取り戻しながらも、その目だけは冷静だった。
「ちょっと脅すつもりが、つい式神を壊してしまいました」
「いやぁ、君の力は想像以上だよ」
伝馬の目が僅かに細くなる。
「このとおり、私は力があります。伝馬殿、私が月読宮に入ることで、どのような得が?」
交渉は、ここから本番だった。
紫月はまるで何でもないことのように微笑んだ。
「そうだね、まずうちは貴族だからね。うちに来るということは紫月ちゃんは名目上、貴族の身分になる。そうなれば和国の法律や陰陽寮の規律上、誰も紫月ちゃんにちょっかいを出せなくなる」
「つまり、魔眼ゆえの迫害から逃れられる、と?」
「そういうこと。この世界では貴族の身分は結構大事なんだよ。しかも、"月読宮の紫月" って肩書を持つことになる。これはそれなりに意味があるよ?」
紫月は静かに伝馬の言葉を聞いている。
「それから、うちに入れば 衣食住は完全保証。この家に暮らすことになるけど、生活に困ることはまずない。普通に暮らす分には不自由しないよ?」
「なるほど」
紫月は頷いた。
ゆっくりと伝馬の提案を考えているようだった。
彼女にとって安定した生活は何よりも大事なものだ。
今まで差別を受け、人間や妖に追われてきた彼女にとって、この条件は確かに魅力的だった。
力はある。だが、力だけではどうにもならないことを紫月は知っていた。
力で相手をねじ伏せたところで遺恨を生み、常に追っ手に追われる生活は嫌だった。
追手を次々に殺したところ、行き着くところは死であること。
だからこそ、天竺の師のような山にひっそりと生活する、静かで穏やかな日々が好きだった。
月読宮で、その生活が手に入るなら願ってもない。
だが、そんな雰囲気を微塵にも出さない。
さらに自分にとってより良い条件を引き出す。
「私から条件をつけてもいいですか?」
「一体どんな条件だい?」
伝馬の眉がぴくりと動く。
「私は長く和国を離れていました。和国のことをよく知りません。なので、最低三日に一冊、私に和国についての本をください。和国の歴史、文化、陰陽師、術などの本を読みたいです」
「なんだ、そんなことか。全然いいよ、うんうん」
紫月の要求が簡単なことで伝馬は拍子抜けをした。
「そしてもう一つ」
紫月がフーッと息を吐き、伝馬をまっすぐ見た。
その紫色の瞳で見つめられ、年甲斐もなく伝馬の鼓動が速くなる。
「仕事をください。ただで居座るつもりはありません。きちんと仕事をして、それなりに月読宮に貢献するつもりです」
伝馬と竜馬が驚いたように目を見開く。
「義理堅いんだねぇ、紫月ちゃんは」
「この世に無料なものはありません。きちんと職を得て自分の身は養えるようにしたいです」
「うんうん、お仕事なんていくらでもあるから好きなのを選べばいいよ」
「ありがとうございます」
「で、僕から月読宮に来る条件は一つだけあるんだけどいいかな?」
「条件?」
紫月の紫水晶の瞳が細くなる。
「竜馬の婚約者になってほしいんだよねぇ」
その言葉に紫月は少しだけ目を細めた。
「……竜馬殿は、それでよろしいのですか?」
穏やかに尋ねられた竜馬は、一瞬、考えるように目を伏せた後、静かに顔を上げた。
「宮のためなら、問題ありません」
その声音は静かで揺るぎがない。
紫月はその言葉を受け、唇をわずかに持ち上げる。
「私も自分の安定のため、異論はありません」
そう言って紫月は茶を飲む。
伝馬は「うんうん、それなら話が早いねぇ」と満足げに頷いた。
一方で、竜馬は紫月の言葉に、ほんのわずかだけ胸の奥が引っかかるのを感じた。
彼女にとって、婚約とは“安定”を得るための手段に過ぎないのだと――。
紫月は竜馬の視線に気づいた様子もなく、淡々とした態度のままだった。
利害が一致しただけの仲。まるで父と母のようだな、とふと竜馬は思った。
竜馬の父伝馬は母である葵と政略結婚をした。
気性の激しい母は父と仲が良くなく、竜馬ができた後も冷え切った関係であった。
母の葵は竜馬のことを溺愛し、それが息苦しくも感じていた。
両親と同じかと内心で思いながらも、すべては宮のためと竜馬はそう自分に言い聞かせ、静かに目を閉じた。
「じゃあ、これで決まりだねぇ。紫月ちゃんは “月読宮の紫月” 。そして、竜馬の婚約者」
「形式上は、ですね?」
「そうそう、そういうこと!」
伝馬がニコニコと笑う。
ふぅと紫月は息を小さく吐いた。
まさか和国についた初日から、このようなことになるとは、さすがの紫月も予想だにしなかった。
だがよく考えれば、初日で大した労をせず、衣食住と肩書ににありつけることのは、ありがたいことだ。
明日からはどのような毎日になるのか少し不安だが、楽しみに感じている自分がいた。