しばしの休息
月読宮の邸宅は、貴族らしい壮麗な日本家屋の豪邸だった。
大きな扉が重い音を立てて開く。
そこには月明かりに照らされ、美しく静かな日本庭園が広がっていた。
池には鯉がいるのだろう。
暗闇の中でも、ときおり赤い背が揺らめきながら泳ぐのが見えた。
伝馬の背を追いながら、紫月は家に着くまでの道のりを楽しんだ。
「ただいま〜戻ったよ」
伝馬は大きな声で帰宅の合図を出す。
「伝馬様、お帰りなさいませ」
おかっぱ頭の色白の女性が恭しく彼の上着を受け取った。
「こちらは僕の大事な客人。白銀、紫月ちゃんを温泉に案内して」
伝馬の上着を受けとった女性は美しいが、どこか無機質な顔立ち――彼女が人間でないことはすぐに分かった。
式神ではなく、妖だ。
「紫月様、こちらへ」
白銀と呼ばれた妖に促され、紫月は彼女の後を歩く。
廊下の先で振り返ると伝馬がニコニコと手を振っていた。
「紫月様、大浴場はこの屋敷の奥にございます」
長い廊下を進みながら、浴場の入り口が見えた。
途中、紫月は何人かの使用人とすれ違った。
人間たちだ。
だが、彼らは紫月の瞳の色に気づくと一様に怯えた表情を浮かべた。
紫月は心の中で小さくため息をつく。大浴場の扉の前で白銀はこちらを向いた。
「こちらが大浴場でございます。中は滑りやすいので、お足元にはお気をつけくださいませ。私は外で待機しておりますので、何かございましたらお申し付けください。どうぞ、ごゆっくり」
白銀が静かにそう言い、扉を開ける。目の前に広がるのは、すべて檜で作られた脱衣場。
奥から温泉の湯気が立ち込め、入り口にまで届いている。
浴槽は大人が十人ほど入っても余裕のある広さだ。
これを独り占めできることに紫月は心の中で小躍りした。
急いで服を脱ぎ、鞄から天竺仕込みの石鹸を取り出して浴場へ向かう。
まずは湯を丹念にかけ、冷え切った体を温める。
熱が染み込むように広がり、芯までほぐれていくのを感じた。
次に石鹸を泡立て、髪の毛を丁寧に洗う。
一か月以上、まともに風呂に入れなかったこの身には、この湯がまさに救いだった。
ふと、思う。
伝馬と二人で馬車に乗ったが、紫月は自分が相当臭っていたのではないかと思った。
その考えに至るや否や、伝馬に悪いことをしたと同時に恥ずかしさで顔が赤くなる。
乾燥させたへちまで石鹸を泡立て、体をやさしく労るように洗う。
顔も丁寧に泡で洗う。
最後に再び湯をかけ、泡とともに汚れを洗い流す。
熱い湯で清めるだけで、生き返るような気分だった。
髪をまとめ、かんざしで止める。
そして、お待ちかねの温泉。
紫月は、そろりそろりと湯に足を入れた。
熱くてつま先が赤くなったが、それすら心地よい。
肩まで浸かると体の力が抜けていくのを感じた。
このまま、眠ってしまいたい……そう思った矢先。
「紫月様、失礼します。お背中を流しに参りました」
不意に湯気の向こうから白銀の声が響いた。
紫月の眠気は、一瞬で吹き飛んだ。
背中を別に流してもらう必要はない。
しかし、せっかくの申し出を断るのも忍びない。
「それでしたら、お願いしましょう」
紫月は湯船から上がり、檜の風呂椅子に腰掛ける。
白銀は着物の袖を捲り、襷で動きやすいようにしばっていた。
「失礼いたします」
白銀はお湯をかけ、石鹸を泡立てながら紫月の背中を擦る。
「白銀……でしたね?」
「はい」
「あなたは月読宮の…妖ですね?」
「はい」
「月読宮はどうですか?」
白銀の手が止まる。
「変な意味ではありません。月読宮は、あなたたち妖から見て、どのようなものなのでしょう?」
「……伝馬様からもお聞きかと思いますが、我々は争いを好みません。そのため、情報戦に重きを置いております」
そう言いながら、白銀の手が再び動く。
「紫月様もご存知のとおり、情報とは非常に価値のあるものです。力ではなく、知識があれば強敵に勝つこともできる。そして、無駄な争いを防ぐためにも、重要な役割を果たします」
「……見るからに、あなたは長く月読宮に仕えているようですね。五百年ほど?」
「その通りです」
「白銀、あなたは月読宮が好きなのですね。そうでなければ、ここまで長く仕えることはできないでしょう」
紫月の言葉に白銀は黙ったままだった。
だが、紫月の背中越しに、微かな気恥ずかしさが伝わってくる。
「もう一つ聞いても?」
「どうぞ」
「他の宮は、どのようなものなのでしょう?」
「高天宮は、御三家で最も霊力が高く、多くの妖を使役しております。彼らの妖は鬼。鎖国的な宮であり、我々でさえ内部のことはよく分かりません」
「そう」
「武焔宮は、軍人の集まりとお考えください。荒々しい武人が多く、力ある者を好みます。彼らは主に妖の討伐を生業にしています」
「なるほど」
白銀が泡をお湯で洗い流す。伝馬の話と大きな相違はないようだ。
「ありがとう。背中もすっきりしました。私はもう少し湯に浸かります」
「それでは肩をお揉みします。紫月様は、どうぞごゆっくり」
紫月はが湯につかると白銀の手が肩に触れた。
目を閉じて湯の温もりと、白銀の手の心地よさを感じながら――。