帰還の刻——温泉と取引
和国の風は肌寒く、紫月の頬を切るようだった。
紫月が船から降りたその瞬間——。
ふわり 。
どこからともなく、一枚の式神が舞い降りた。
蝶のような白い紙が、ふわふわと紫月の肩に降り立つ。
和国の陰陽師のものに違いない。
一体どこから嗅ぎつけてきたのか。
悪意はないことは分かっていたが、紫月はその式神を無造作に握りつぶした。
話す気にもならないし、関わりたくない。
和国の人間、特に陰陽師とは。
紫月は、まるで肩に付いた埃でも払うように手を振った。
「ちょっとー話す前に使いを壊さないでよ」
不意にのんびりとした声が響いた。
紫月が顔を上げると、そこには ニコニコと笑う男が立っていた。年は50ぐらいだろうか。
人なつっこそうな柔和な顔立ちをした男だった。
「何用ですか」
冷たい声で問いかける。
「君、私と取引をしよう。悪くない話だよ?」
紫月の空気が張り詰める。
先ほど握りつぶした式神の主が、この男だと直感した。
男を無視し足を進める。
だが、その瞬間——。
「うちに温泉あるよ」
その言葉に紫月の足がわずかに止まった。
和国の陰陽師とは関わりたくない。
そう決めていた。だが、旅の疲れは無視できなかった。
海を越え、久方ぶりに踏んだ故郷の土。
想像以上に身体に負担がかかっていた。
紫月は体力には自信があった 。
だが、さすがに2ヵ月近く続いた船旅はとくに精神を疲弊させた。
ろくに風呂にも入れていないことが紫月にとって何より辛かった。
紫月はほんの少し考える。
しかし、次の瞬間——。
「あったかい温泉で旅の疲れを癒したいよね〜?」
男の楽しそうな声が響いた。
まるで幼い子供がいたずらでも仕掛けるような声音 だった。
紫月は軽く息を吐く。
この男は油断ならない。
しかし、紫月の脳裏には湯船に浸かる自分の姿が浮かんでしまっていた。
旅の疲れ。
身体の芯に染み付いた重み。
それが、熱い湯でほぐされる感覚——。
「……話だけは、聞きましょう」
紫月がそう答えると、男はニヤリと笑った。
「はい、お嬢様。こちらにお乗りくださいませ〜」
そして、紫月は男と共に牛車に乗り込んだ。
男と向かい合う形で座り、目元の布を外す。
男が息を呑むのがわかった。
「いや〜、本当に魔眼ってあるんだねぇ…」
感嘆混じりに呟く男を紫月は静かに見つめた。
それは「見る」というより「値踏みする」に近い。
この男は何者か。紫月の探るような視線に男は気づいた。
「ごめんごめん、自己紹介がまだだったね」
男はニコニコと笑いながら言う。
「僕は月読宮伝馬。この国の陰陽師だよ」
「月読宮……」
紫月はその名を口の中で反芻する。貴族の名か?
十五年ぶりの祖国。知らないことだらけだった。
「君の名前は?」
「紫月です」
「紫月か〜いい名前だね。君にピッタリだよ」
「早速ですが、伝馬殿。あなたのいう取引とは?」
紫月が単刀直入に問うと、伝馬はバツの悪そうに頬を掻いた。
「本当はさ、お風呂に入ってから話そうと思ったんだけど……まあ、先に話したほうがいいかなぁ」
そして、急に表情を引き締める。
「紫月ちゃんは、この国の陰陽師についてどれくらい知ってる?」
「……」
紫月は無言で首を横に振った。
いつの間に「ちゃん」付けになっていたが、紫月はほおっておいた。
「そうか、そうか。この国には陰陽寮という陰陽師を統括する省があってね……」
伝馬は軽い口調で語り始めたが、紫月には分かった。
この男、軽薄に見えて、実に計算高い。どこまでが冗談で、どこまでが本気なのか。
底が知れない。
「陰陽師っていうのはね、星を読んだり、妖を討伐したり、祈祷をしたり……まぁ、いろいろやってるんだ。ここまでは大丈夫?」
伝馬は軽い口調で言いながら、紫月の様子を窺うように目を細めた。
「その陰陽師たちを束ねているのが陰陽寮。その頂点に立つのが陰陽の頭と呼ばれる人物。そして、陰陽寮を支えるのが『御三家』と呼ばれる三つの家だ」
「その一つが、あなたたち月読宮?」
「そうそう! 紫月ちゃん、話が早いねぇ」
伝馬は満足そうに頷くと指を一本立てた。
「まず僕のいる月読宮。それから現陰陽寮の頭がいる高天宮。そして、力こそ全てと信じている武焔宮。この三つが御三家だよ」
伝馬はひょいっと肩をすくめる。
「でねぇ、この高天宮と武焔宮が、まぁ〜仲が悪くてさ」
「仲が悪い?」
「うん、高天宮は未来を読み、帝や貴族のお気に入り。でも、武焔宮は『力こそ正義! 陰陽師はもっと表に出るべき!』って考えてるから、今の陰陽の頭が気に食わないんだよねぇ。武焔宮の連中は軍人なんだよね。陰陽師の中でも、ちょっと特殊な立ち位置なんだ」
紫月は静かに聞きながら、言葉を整理する。
「つまり、高天宮は権力、武焔宮は武力。そして、あなた方月読の宮は……?」
「え? うち? そりゃもう一番弱いよ〜」
伝馬は朗らかに笑った。
「うちは力じゃ勝てないし、高天宮みたいに未来も読めない。でもね……情報戦は得意なんだよ」
彼は指をひらひらと動かし、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「だからね、紫月ちゃんが和国に来ることも前もって知ってたんだ」
紫月は彼の言葉を噛み締める。
「なるほど」
その一言には、わずかな警戒が滲んだ。
伝馬は相変わらず陽気な笑みを浮かべているが、その目の奥には確かに「探るような色」があった。
「紫月ちゃんが和国に来たことは、遅かれ早かれ、武焔宮と高天宮にバレる。絶対に、ね」
彼はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「そうなったら、どうなると思う?」
「……」
「戦争だよ」
伝馬の声は、いつもの飄々とした調子のままだった。
「紫月ちゃんがどちらかについたら、今の均衡が崩れる」
「ご冗談を。私一人で戦争に?」
紫月は鼻で笑った。いきなり「戦争」などと言われても、実感が湧かない。
だが、伝馬の返答は予想外だった。
「本当だよ。攫われたシータ姫を救うため。なんてね〜」
その軽い口調に紫月は驚いて伝馬を見た。
紫月の紫水晶の瞳が初めて「驚き」の色を帯びる。
彼女が天竺にいた頃、古い書物の中に見つけた物語。
天竺の神話で天竺にいるものならだれでも知っている話。
攫われたシータ姫をラーマ王子が色んな所に味方を付け、大軍をひいて奪還する話。
和国でこの話を知る者がいるとは思えなかった。
紫月の視線が、初めて伝馬に興味を持った。
伝馬はその瞳を見て満足そうに微笑んだ。
「ふふふ……面白いですね。伝馬殿に興味を持ちました」
「本当に? すごく嬉しいよ」
「それで囚われの姫に何かお願いでも?」
紫月が皮肉めいた笑みを浮かべると伝馬は肩をすくめた。
「紫月ちゃん、めちゃくちゃ強いでしょ?
だってさ、いざとなったら僕のこと殺そうと思ってるでしょ?」
彼はひょいと袖をまくり腕を差し出した。
「もうね、僕、ずっと鳥肌立ちっぱなしなんだよ、実は」
確かに、その腕には細かな鳥肌が浮かんでいる。
紫月は小さく笑った。紫の瞳が暗い光を帯びて伝馬を見る。
その視線に伝馬の背筋に悪寒が走った。
だが、ここで怯んではいけない。
伝馬は両手を頭の上で合わせ、紫月に向かって拝むように言った。
「だから、紫月ちゃん! 月読宮に来てほしいんだよ〜」
僕たち、弱いし、紫月ちゃんがいてくれたらすごく助かるし、なにより……争い事が嫌いなんだよね、僕」
その言葉に嘘はないように思えた。
「もし私があなたについたら、何をもらえるんです?」
紫月が静かに尋ねると、伝馬はぱあっと顔を明るくした。
「月読宮に興味持ってくれた!? 嬉しいなぁ〜」
「条件次第です」
「わかってるわかってる! 話を聞いてくれるだけでも、本当にありがたいよ」
伝馬は満開の花のような笑みを浮かべた。
諜報活動が得意だと言っていたが、ここまで感情を表に出す男が本当に情報戦を操れるのか——紫月はふと疑念を抱く。
「まず紫月ちゃんの生活が安定するよ。
月読宮は一応、貴族だからね。社会的地位もあるし、紫月ちゃんに手を出すやつは基本いない。
もちろん、衣食住も保証するし」
伝馬は、いたずらっぽく笑った。
「あとね、うちには温泉がある!!!」
「温泉……」
その言葉が紫月の耳に引っかかった。
──熱い湯。
──体の芯まで温まる感覚。
疲れているのかもしれない。
紫月は自嘲気味に微笑んだ。
いきなり、色々なことが起こりすぎた。
とりあえず、ゆっくり休むのも悪くないかもしれない。
「——お、ちょうど着いたね!」
伝馬が軽快に声を上げる。
「じゃあまあ、まずは温泉に入って、それから続きを話そうか」