紫水晶の瞳
紫の瞳—それは天が選びし異端の証。
魔眼——紫水晶のごとく輝く瞳。
それを持って生まれた者は生まれながらにして圧倒的な霊力を宿し、妖を惹きつける宿命を持つ。
そのため、和国では「禍の子」「災厄を招く者」と恐れられ、異端として忌み嫌われてきた。
だが、魔眼は基本的に片目にしか宿らないとされていた。
紫月は稀有な存在だった。
彼女は濃い紫水晶の色をした魔眼を両目に持って生まれた。
漆黒の髪に白い肌。すっと通った鼻筋に厚めの唇。精悍で整った顔立ちは美青年にも見えた。
彼女の美貌は、ただの美しさではなく魔性とすら言えるものだった。
妖にとって極上の霊力を放つその瞳は、人間にも畏怖と憧憬を同時に抱かせる。
そして今、その紫水晶の瞳は 陰陽師の名門・御三家の会議へと向かおうとしていた。
紫月は深い溜息を漏らした。
白い狩衣の袖に月読宮の家紋が浮かび、顔を覆う布にも同じ紋が刻まれている。
その布の隙間から覗く紫水晶の瞳が、かえって存在感を増していた。
「準備はいい?」
伝馬の声に、紫月は無言で頷いた。
御三家の集いに伝馬の息子―竜馬の婚約者として初めて臨む日。
誰もが彼女を歓迎しないことは空気として痛いほど伝わってきた。
薄暗い集会所に足を踏み入れた瞬間、蝋燭の炎が一斉に揺らめき、場の温度が一段と下がったように感じた。
香木の匂いが鼻をつき、古い絹の摩擦音が耳を刺す。
「あれが魔眼…」
「なんと禍々しい…」
囁きとともに視線が紫月に注がれる。
まるで棘のように肌に刺さるそれらを紫月は表情一つ変えず無視した。
伝馬と竜馬の後ろを決して急がず、決して遅れず、静かに進みながら、彼女は心の中で何度も自分に言い聞かせていた—今日からここが私の居場所になるのだと。
陰陽寮御三家の一つ、月読宮。
月の紋を掲げるその一族は、代々、幻術と人心掌握の術に長けていた。
最も低い霊力を持つと言われるが—それはあくまで御三家の中での話。
彼らはそれでも普通の術師たちの遥か上を行く技量を持っていた。
その当主である伝馬が紫月を見出したのは2カ月前のことだった。
両目の魔眼—そんな逸材を見逃す手はなかった。
紫月は歩きながら、その取引を思い返していた。
社会的地位、権力、財力—自分の安定と引き換えに、この場所にいる。
本当にこれでいいのだろうか。
心の中で幾度となく問いかけてきた疑問。
婚約は彼女にとってはただの条件に過ぎなかった。
所詮、愛のない形だけの約束。
竜馬もいつか婚約破棄を申し出てくるかもしれない。
それでも今は、月読宮の人間だ。
安定こそが全て。
そう自分に言い聞かせる一方で、心の奥底では別の何かを求める気持ちが渦巻いていた。
師の言葉—「そなたの道」とは何だったのか。
ただ安定を得るためだけに和国に戻ったのではない。
しかし、その「何か」がまだ見えない。
「月読宮 、参りました」
高天宮 薫—陰陽の頭が待つ広間は、張り詰めた緊張に満ちていた。
紫月たちが中に入った途端、御簾の奥へに続く光がついた。
幽玄な青白い光が漂い、冷気が微かに渦を巻く。
冷気を含んだ空気が肌を撫で、紫月は無意識に背筋を正した。
御簾越しにうっすらと映る人影。
両脇に座る侍女たちの正体が、式神だと紫月は一目で見抜いていた。
紫月の魔眼が光った瞬間、御簾の向こうから微かな気配の変化を感じる。
陰陽の頭の興味が、まるで針のように自分に刺さってくるようだった。
三人で高天の宮 薫の御前にいき、首を垂れた。
「月読宮伝馬でございます。この度は私の倅の婚約者を連れて参りました」
紫月は息を止めた。
御簾の向こうに座るのは人ではない。
形は人だ—しかし、紫月の両目に宿る魔眼は嘘をつけない。
彼女の紫水晶色の瞳に映るのは精巧に作られた式神。
そして、その操り手はどこかで彼女を観察しているのだと知っていた。
「紫月と申します。以後お見知り置きを」
声に震えを出さぬよう努め、紫月は深々と頭を下げた。
「紫月、ちこうよれ」
鈴を転がしたような声が響く。
陰陽の頭、高天宮薫の声は、予想外なほど愛らしかった。
しかし、その響きには凍てつくような冷たさが潜んでいた。
紫月は薫の声に従い、しずしずと御簾の前に座った。
「面をあげよ」
紫月が顔を上げると御簾の隙間から白い指が伸び彼女の頬に触れた。
冷たい。
思わず身体が後ずさったが、その指は紫月の頬を優しく包むように触れ、すぐに引っ込んだ。
「美しい…両目とも見事な魔眼じゃ。そなたの霊気は…まるで研ぎ澄まされた刃のよう」
御簾の向こうで薫が扇子を開く気配がした。
「伝馬、先見の明があるのぉ」
薫の声に含まれる笑みが紫月の背筋を凍らせた。
「この娘を婚約者にするなんて、そなたも抜け目がない。この娘は妾が欲しいぐらいじゃ。ほっほほほ」
場内がざわめく。
その反応を楽しむように、薫は再び扇子を動かした。
「美しい、実に美しい。久々にここまで心地よい霊気を浴びたものじゃ。
紫月、そなたの魔眼には何が見える」
紫月は顔を伏せながら静かに答えた。
「この目に映るものは、ただ在るがままの姿のみです」
「ほう?」
薫の声が僅かに鋭さを帯びる。
「在るがままとは何が見えるのじゃ?」
「影も、光も」
紫月は顔を上げ、御簾の向こうをまっすぐに見据えた。
「そしてーーー式神も」
一瞬、場が凍りついたように感じた。
しかし、次の瞬間、薫の澄んだ笑い声が響き渡る。
「よかろう。紫月を月読宮と認めよう」
扇子で口元を隠すしぐさがうっすらと見えた。
「楽しみじゃ。そなたの目はどこまで見通せるか。
紫月、今度は妾のところに来てくれたもう。そなたとゆっくり話がしたい」
薫はそう言うと、ほほほと笑った。
「ありがたき幸せ。近々参ります」
「皆も聞いた通り、紫月は今日から月読宮じゃ。誰か異論はあるかえ?」
誰も何も答えなかった。いや、答えられなかった。
陰陽の頭である高天宮薫に反論できるものは、この場で一人もいない。
薫は上機嫌のようだった。
「よきよき。では本日の会議はこれで終わりじゃ」
薫の扇子が閉じる気配がした。
そして、同時に御簾の向こうにいる薫の姿が消えた。
「皆様、お気をつけてお帰りください」
薫の侍女が同時にそう言った。
そして、青い灯火は一斉に消え、薫の侍女たちも姿を消した。
紫月は無事に挨拶を終えて、ようやく体の力が抜けていくのを感じた。
厳しい審判を通過したかのようだ。
これから月読宮としての人生を歩まなくてはいけない—その事実は彼女の中で、まだ実感として定着していなかった。
不安と期待が交錯する。
安定を手に入れても、本当に自分の居場所になるのだろうか。
そして何より、あの高天宮薫の視線の意味するところは—。
紫月は震える手を袖の中に隠しながら、これからの道を静かに見据えた。