回復
三題噺もどき―ごひゃくはちじゅうはち。
物音で我に返った。
携帯をいじるのに夢中になって、アッと言う間に時間が経っていたようだ。
寒くて頭から布団にもぐっていたのもよくなかったかもしれない。
「……」
気づいた瞬間に、少々息苦しく感じたので、毛布の中から顔を出す。
冷えた空気が頬を刺し、思わず身を縮める。この部屋はいつでも寒い。夏は暑いけど。
外は曇っているのか、部屋の中は暗い。支障はないので何も問題はないんだけど、時間が経つのが早いのか陽が落ちるのが早いのか……。
「……」
耳を澄まさずとも聞こえる物音の正体は、きっと母だろう。
聞こえるのはピアノの音だもの。
我が家には母の練習用に電子ピアノが置かれているのだ。
リビング横の和室に置かれているので、その部屋の扉を閉めて居れば聞こえないんだけど、あの人たちはなぜかドアというドアを開けっぱなしにするので丸聞こえである。私には絶対出来ない……。ドアを開けっぱなしにするのも中途半端に開けているのも苦手である。あれだ。小さな隙間が気になるのと同じだ。
「……」
一昨日から続いた体調不良がようやく回復に向かっていた。
今朝にはもう熱は下がっていたし、ぼうっとする感覚もなくなっていた。まだ少し喉は痛むが、これは別に気にしなくてもいい程度のモノだ。他人と話す事なんてないからな。家族との会話は、そこはもう赤の他人ではないから伝わる。……そうでなくても私は会話の数は少ないので別に問題はない。
「……」
しかし何の練習をしているんだろう。
聞こえる感じクリスマスの曲なんだけどな。クリスマス会でもすんのかな。するんだろうな。みんなで歌いましょうってな。
「……」
気づけばもう12月も半ばに差し掛かっている。
一年が経つのはほんとにあっという間だなぁ。そうこう言っている間にクリスマスとお正月と迎えてしまうんだろう。
別に何も後悔はしていないが、無駄にした感がモノすごいあるのは否めない。
「……」
いいや。
今はそんなことどうでもいいや。
回復したばかりの体調で考えることではない。不調の時に落ち込まなかったのは幸いだ。思考がろくに回らなかっただけだろうけど。
おかげで、体調が戻りつつある今は若干調子がいい。いろんな。
「……」
だからと言って、すぐにどうこうしようとはならないんだけど。
とりあえず。
何か食べ物が欲しい。
「……」
地味に空腹を訴えてくる腹を抱えながら、起き上がる。
冷たい廊下を裸足で歩かないように、ルームシューズを履く。
ついでに入れそうだったら風呂にも入ろう。汗をかいているのか気持ちが悪い。
「……」
階段を降りていくと、リビングの電気は消えていた。
母以外誰も帰ってきていないようだ。その母も和室で練習に集中しているのか気づいた様子はない。ま、あの人は物音には若干鈍感なところがあるのできづかないだろう。誰かが階段を降りてきたくらいは気にもしない。
「……」
リビングの電気をつけて、机の上を物色してみる。
小さめの籠の中にいくつかお菓子が入っていたりするのだけど……なんかあったかな。
ん。あぁいいの発見。
「……」
手に取ったのは、チョコレート。
カカオ成分が多めに入っている奴で、甘すぎないので結構好きである。
緑の袋を破り、口の中に放り込む。程よい苦みが口内に広がり、どろりと溶けた食感が癖になる。こういうのは噛まずに溶かす方が好きだ。
「……」
ついでに水分補給をしようと、キッチンに向かおうとしたところで。
「――、」
「……なに」
和室の母から声がかかった。
なんだ、気づいてたのか。いや、電気がついたから気づいたのか。
水分補給を諦め、和室へと向かう。
「なに」
「これさ……」
再度何かと問うと、手に持った携帯電話を見せてきた。
またかという気持ちと、いい加減覚えてくれという気持ちが同時に襲う。
何度も何度もこうして携帯電話の操作のことだったり、何かの通知とかメッセージのことだったりを聞いてくるのだ。
別に簡単なことだから良いのだけど、それが積み重なってくるといい加減にしてくれと思うのも無理はないと思う。
「……いやきにしなくていいやつだよ」
「そうなん、」
今日は何かメッセージが届いていたようだ。
適当に流し見して、そう告げる。
丁度練習もキリがよかったのか、電子ピアノの電源を落とし、コンセントも抜いていた。
「風呂入る?」
「うん」
もう既になかったことのように次の会話に移る。
何も言わないが、何か一言くらいあってもいいと思わないか?
お題:ピアノ・チョコレート・携帯電話