護身術の訓練
アスティリオス伯爵家には、邸の裏に離れが存在する。何代も前の伯爵家当主が建てた離れと本邸の間には屋根が設置された広い空間のことで、雨の時期でも外で過ごすことができるようになっている。
襲撃の晩の、翌日。
アスティリオス伯爵家の裏庭で四人の人物がくるくると動き回っていた。
そのうちのひとつは当家のお嬢様、ロウェリーゼ。動きやすい乗馬服を纏い、たおやかな手に似合わぬ頑強な造りの短剣で振り下ろされる長剣をいなしている。
対峙する長剣の使い手は、黒髪に青い瞳を持ち伯爵家の私兵の制服に身を包んだ、十八くらいの年頃の青年だ。細身の体躯だが、金属製の長剣を軽々と操っている。
「お嬢様、そろそろ休憩しましょう」
青年が声を掛けて、攻撃の手を止める。ロウェリーゼは同意して、
「そうね、ジャッカス。多少鈍っていた勘もだいぶ戻ってきたし、短剣の間合いにも慣れてきたわ」
「お嬢様は呑み込みが早すぎますって。普通は短剣を使い始めて半日で長剣と相対するなんて芸当、できないですよ」
「褒めすぎよ。護身術は小さい頃から習っていたし、短剣だって野宿で困らないようにと教えられて、触れてはいたもの」
前々から使っていたのだから、こんなものだろう。短剣の名手であるジャッカスに褒められて悪い気はしないが、才能ではなく努力の結果なのだからあまり調子にのって慢心に繋がってもいけない。
そう考えるロウェリーゼは、自分の返答が余計相手を感心させるものだということに気付いていない。実際のところジャッカスは多少色を付けた誉め言葉を贈ったつもりが、ロウェリーゼに大人顔負けの落ち着いた返しをされて、うちのお嬢様は謙虚だし努力家だ!と感心してしまった。むしろ軽い気持ちでおべっかを言ってしまった自分が恥ずかしいとすら思える。
「お嬢様は大人ですね」
「そんなことはないわ、まだまだ子供よ」
まったくもって、子供らしくない返事である。
だが、
「そんなことはいいから、ニーファ達の方を見に行きましょう。今日はどちらが勝つかしら」
恥ずかしそうに頬を赤らめて話題を逸らしてしまうところは、年相応にかわいらしいお嬢様だとジャッカスは思った。
ロウェリーゼとジャッカスの訓練とぶつからないように大きめに距離を空けた場所で、ニーファと大柄な壮年の兵が激しい戦闘をしていた。壮年の兵はこの邸でも五本の指に入る実力の持ち主で、目にもとまらぬ速さで移動し、さまざまな方向からニーファに攻撃を仕掛けている。変則的な動きにも、ニーファは侍女服の裾を翻して、細身の剣と、針のような変わった武器の二刀流で応戦していた。
つまりはロウェリーゼに必要なのは自衛の訓練、ニーファは護衛の訓練、というわけだ。方向性も実力も異なるので、一緒の訓練は行わないのだ。
刃が交わる度に、キン、と涼しげな音が鳴る。時たま火花さえ散って見えるほどの勢いで、二人の打ち合いは加速していく。
ロウェリーゼは彼らから少し離れたところに腰を下ろした。ジャッカスがその後ろに控えるように立つ。
「ジャッカス、隣に座られたらいかが?」
ロウェリーゼがジャッカスを見上げた。
「いえ、お嬢様をお護りしなければならないのでこちらの方が都合がいいです」
そう、と答えてロウェリーゼは視線をニーファ達へと滑らせる。
手合わせもいよいよ佳境を迎え、ロウェリーゼとジャッカスが見守る中、とうとうニーファの持つ細剣が弾き飛ばされた。最後の足掻きとニーファが左手に持った針のような武器で相手の喉元を狙うが、剣を持った右腕を腕に絡まれて押さえられ、逆にその剣先を喉元に突き付けられた。
髪一筋の隙間を空けてぴたりと刃が止まる。数秒、二人は睨み合ったまま膠着した。
そんな二人に向けて、ロウェリーゼが声を張る。
「ニーファ、ラナク! そろそろ休憩にしましょう」
「……! かしこまりました、お嬢様」
ロウェリーゼの声に反応して、ぱっとニーファが踵を返してこちらにやってくる。壮年の兵もそれに続いた。
「お疲れ様、ニーファ。相変わらずすごいわね、あんなに激しく戦えるなんて」
「とんでもございません。今日も負けてしまいました……」
「いやいや、ニーファ殿は並みならぬ強さですよ」
珍しくしょんぼりとした様子を露わにするニーファに、追いついてきた壮年の兵、ラナクが苦笑する。
一本に括られた明るい赤髪が特徴的な、優しげな顔立ちの私兵だ。子どもに飴玉でも配っていそうな雰囲気だが、アスティリオス伯爵家の私兵団に四つある部隊のうち、遊撃や個人での警護を行う隊の部隊長を務める猛者である。
そんな実力者であるラナクのお墨付きを歯牙にもかけず、ニーファはぐっと拳を握った。
「負けているようではお嬢様をお護りできません。もっと精進いたします!」
「ニーファ、あなたどこを目指しているの……」
戦闘は侍女の必須項目ではない。アスティリオス伯爵家では、その立場により狙われやすいため下働きや料理人も含めた全使用人に自衛の心得があるが、あくまでそれも自衛。ラナクやジャッカスのような私兵がいるのだから、護衛の役割までこなせるような戦闘力は必要ないのだ。
「刺客程度倒せず、どうしてお嬢様の侍女を名乗れましょうか! 有事の際に最後の砦となれるのは侍女なのです、肉の壁になってしまっては、その後に襲われた時にお守りできないではないですか」
「ニーファ、肉の壁なんて言わないで頂戴……」
その通りと言えばその通りだ。ここまで熱を込めて語られると、逆に納得しがたいものがあるが。
「まぁ、力をつけておいて悪いことはないのは確かだけれど。無理はしないでね」
「はい、お嬢様。肝に銘じます」
話がひと段落したところで、ニーファの入れたお茶をお供に皆で休憩する。地面に敷いた大きな布の上にローテーブルを重ねて、それを囲むように車座になっている。
一見するとピクニックのようだ。
ちなみに、ジャッカスとラナクは同席を遠慮したのだが、ロウェリーゼの悲しい顔とその後ろから無言で睨んでくるニーファに負けて大人しく席に着いていた。
「そういえば、二人は昨夜襲撃者を捕まえてくれた騎士様にお会いしたのかしら?」
ラナクとジャッカスは一度顔を見合わせてから、ロウェリーゼを見た。
「私は見ておりません」
「俺は遠くからでしたが、見ましたよ。正門の警備から駆け付けたんでちらっと見た程度ですけど、かなりの強さだと思います」
ジャッカスの返答を聞いて、ロウェリーゼが軽く身を乗り出す。
「そうなのね。その方は、サルヴィーニ公爵子息でいらっしゃるという話があるのだけれど、あなたはどう思って?」
「申し訳ございません。俺はサルヴィーニ公爵子息にお会いしたことがないので、それについては何とも判断できかねます」
「ジャッカス。一人称」
すかさず飛んだラナクの注意に、ジャッカスがやべ、と肩を竦めた。
「すみません」
「そうよね。公爵家の騎士様にお会いする機会なんて滅多にないもの。気にしないで」
申し訳なさそうなジャッカスに、ロウェリーゼは微笑みかける。もともと知っていれば御の字程度の軽い気持ちでの質問だったし、人称に関してはどちらだってかまわないと思っているのだから、気に病まないでほしい。
ジャッカスに厳しい視線を向けていたラナクが、転じて穏やかな視線をロウェリーゼに向けた。
「お嬢様、私はその騎士にはお会いしておりませんが、騎士をしておられるサルヴィーニ公爵子息については多少の為人を存じております」
「あらっ。ラナクはどうしてサルヴィーニ公爵子息のことをご存じなの? お父様の護衛かしら」
「いえ、」
ラナクはそこで一度言葉を切って、照れたように頬を掻きながら続けた。
「私は以前、王宮警護の騎士を務めておりまして。サルヴィーニ公爵令息アレクシス様は、一時期部下だったことがあるのです」
「ええっ! ラナク、あなた騎士様でいらしたの? そんな名誉ある立場だったのに、どうして今はアスティリオス伯爵家で私兵をしていらっしゃるの」
寝耳に水だったロウェリーゼは声を上げたが、ジャッカスとニーファは知っていたようで落ち着いている。
「謁見の間の警備の担当だった日に、初めてお会いした旦那様に、うちの私兵として働かないか、と勧誘されまして。陛下もアスティリオス伯爵家の守りを強化したいからと、望むなら王家からの出向として騎士の身分も保証しようというお話をいただきました」
「でしたら、ラナクは今も騎士様なのね。ラナク様、と呼ばなければならないかしら」
騎士は、貴族の階級とは別枠として捉えられる名誉な位である。いかに高位の貴族といえどないがしろにはできないし、陛下のすぐ近くに仕える騎士ともなれば、男爵や子爵よりも手厚い歓待を受けることすらあるくらいだ。
冗談めかしてロウェリーゼが言うと、ラナクは微笑んだまま緩く首を振った。
「いいえ。私は騎士の身分は返上してアスティリオス伯爵家の私兵となりましたから、呼び方は今のままで構いません。迷ったのですが、仕えていた王家の意向もありましたし、出向という形では完全な仲間として背中を預け合える存在にはなれなかったでしょうから」
「そうでしたの。ラナクらしい、実直な選択だと思いますわ」
ラナクが昔騎士として働いていたなんて、全く知らなかった。だが、そう聞けば彼の実力にも頷ける。
アスティリオス伯爵家は王家との関わりが深く、かなり重要な家である。だからこそ優秀な私兵を抱え込む必要があるのだが、土地を持たない宮廷貴族のアスティリオス伯爵家では、実力者を集めにくい。
父が、年に一度開催される身分を問わず行われる闘技大会で、試合開始前には先んじて目ぼしい者に声を掛けていることは知っていたが、まさか騎士にまで引き抜きをかけているとは思わなかった。そして本当に引き抜かれる騎士がいるとも思わなかった。
「ところで、お嬢様。サルヴィーニ公爵令息のお話はよろしいのですか」
ラナクの話が終わりを迎えたところで、ニーファがそっと口を挟んだ。
ロウェリーゼはその言葉にはっとして、眉をハの字に下げた。
「ごめんなさい、ラナクが騎士様だったことに驚いて、本題を忘れてしまっていたわ。サルヴィーニ公爵令息のお話を教えてくださる?」
「もちろんです。アレクシス様は、そうですね……かなりの実力を秘めていらっしゃる方かと存じます。ですが出世したくないとお考えのようで、うまく手を抜いて任務をこなしているように感じました」
「まぁ。では不真面目なお方なのですか?」
お嬢様にそんな奴を近づけたくない、という感情がありありとにじんだ表情でニーファが言う。するとラナクはそれに首を横に振って、そうではない、と答えた。
「不真面目というわけではないのです。最後の最後で他の者に手柄を譲るような真似をするのです。それもかなり自然な形で行っているので、気付いているものは少ないかと」
「そうでしたのね。公爵家の方でしたら、手柄を両手に掲げてもやっかみや後ろ盾など、心配するようなことはないと思うのですけれど……」
「目立つことがあまり好きではないようです。任務に対してはかなり実直で真面目にこなしているように見受けられました。そのため仲間内では運が悪い奴と揶揄われていましたが、あれはわざと手柄を譲っているのでしょう」
「それは、珍しい方ね。でもそんな方でしたら名乗らずに帰ってしまわれたことにも頷けますわ」
「そうですね。聞いている限りでは、昨晩の騎士様はサルヴィーニ公爵令息で間違いなさそうです」
ニーファも同意を示して頷く。
「わたくし、サルヴィーニ公爵令息に昨晩のお礼をしたいのですけれど、お会いできそうな機会はないかしら」
ラナクはそうですね……と唸って、ゆっくりとした口調で言った。
「アレクシス様に個人的にお礼に出向かれることは避けた方がよろしいかと。目立たないようにと相当気を払っているようですから。できれば偶然を装ってお会いしていただければと思うのですが、いつがよろしいことやら……」
そこでずっと黙っていたジャッカスが、「あのっ!」と声を上げた。
三人の視線がジャッカスに向く。
「四日後に開かれる戦勝の夜会って、お嬢様は参加されないのですか? 戦勝記念ですから、騎士の方々も何名かは参加されるのではないかと思うのですが」
「まあ! ジャッカス、名案だわ。ありがとう。わたくしは参加するつもりはなかったのですけれど、招待状は届いていたはずですから参加できますわ」
「では、訓練を終えたら夜会の準備をいたしましょう」
そうね、とニーファに頷くロウェリーゼはにこにこと満面の笑みだ。
「目立たないようにしていらっしゃるなら招待されていらっしゃらないかもしれないけれど、公爵家のご嫡男でいらっしゃるのだし、そうでない騎士様方も可能な限り周辺の警備に就かれるはずですもの。お会いできるかもしれないわ」
「そうですね。義務を疎かにするような方ではありませんから、もし正式に招待されていれば出席されるでしょう」
「お嬢様、頑張ってください!」
ロウェリーゼはええ、と笑って、飲み終えたティーカップをローテーブルの上に戻した。
「さあ、そろそろ訓練にもどりましょう。早く短剣を使いこなせるようになりたいわ」
立ち上がったロウェリーゼにジャッカスが従い、片づけたニーファとラナクが遅れて彼らを追いかけていき、訓練はそれぞれ再開された。