その騎士の名は
その後、アスティリオス伯爵家はてんやわんやの騒ぎになった……わけではなかった。
腐っても建国当初からの国王陛下の腹心。荒事の対処には慣れっこだったのである。
邸の兵が駆け付けたところ、邸の前には肩を刺された黒ずくめの男と、彼を拘束している騎士がいたそうだ。レムフィラトスでは王国騎士団の者のみが騎士を名乗り、その制服を着用することを許されているため、騎士の身分については国により保証されているともいえる。そのため特に騎士に追及することはなく、兵は礼を言って襲撃者の身柄を引き取った。
王都内で起こった事件は原則騎士団の管轄となるが、貴族を狙った襲撃であることが明確な場合は、襲撃から丸一日の間は、法により裁く権限はないものの狙われた者の管轄となる。国内の政敵による犯行だった場合、騎士団にいる派閥の者が事実を改竄してしまう可能性があるからだ。
その間に犯人を捕まえるもよし、拷問して殺すもよし、逃がすもよし。しかし丸一日を過ぎれば捜査の権限はすべて騎士団に移り、犯人の身柄を引き渡さなければならない。そこから騎士たちが事件について調べ、公的文書を作成するのだ。
黒ずくめの男を捕えていた騎士によると、城での勤務を終えて帰宅がてら見回りをしていたところ、怪しい人物が弓を構えて窓の内の少女を狙っているのを見かけたため、反射的に攻撃を阻止したという。襲撃者がどこから来たのかなどは見ていないということだった。
兵が事情を聴き終えると、騎士はすぐに立ち去ってしまったらしい。
こうした兵による対処は、彼らも慣れたもので迅速だったのだが、ひとつ問題があった。
大事な一人娘を狙われた当主ロベルティオが、怒り心頭だったのだ。
ロベルティオは引き渡された襲撃者を自ら拷問にかけたのだが、彼が情報を吐くことはなかった。分かったのは、その風貌からどうやら敗戦国オーゼドル以西の国の生まれのようだということぐらいだ。
ロベルティオは己の手で情報を引き出すことを諦め、邸の兵に続きを任せるとともに、決して殺してはならないと厳命した。
丸一日が過ぎたあと、引き渡した先の騎士団でもきちんと調べてもらわねばならない。国の組織である騎士団の捜査の方が外国に関わる捜査は容易だし、公的な捜査記録が残るので後々の責任追及も楽になる。
そして、拷問で汚れた身なりを整えたロベルティオは、執務室に愛娘を呼び出した。
騒ぎに起き出していた妻と息子もやってきたので、二人には前もって、分かっていることを説明しておく。
さあ、警戒を怠っていた娘を叱らなくてはならない。
襲撃されてからしばらく、涙目のニーファに連れられてお母様の部屋で身なりを整えていたのだが、お父様に呼び出されてしまった。
正直、襲撃された時点でこうなることは予想できていた。油断していた私が完全に悪い。絶対に怒られるだろう。
執務室には、お父様だけでなく、お母様やお兄様までいる。襲撃からこっち、ずっと緊張していたロウェリーゼの肩が一層強張った。
「我が愛しの娘、ロウェリーゼ」
「はい、お父様」
「どうして、窓の外を覗いたんだね? ニーファは注意しなかったのかい」
ロウェリーゼの斜め後ろに控えるニーファが、ロベルティオの怒気を孕んだ低い声音にびくりと体を震わせる。ロウェリーゼはニーファを庇うように、一歩横にずれた。
毅然と顔を上げて、意識して父の黒い瞳を真っ直ぐに見返す。
「ニーファに落ち度はございません、お父様。悪いのはわたくしだけでございます。久方ぶりの晴れ間に誘われて、月夜を眺めたいと思ってしまったのですわ」
「ふむ……」
ロベルティオは低く唸って、顎に手を当てた。
「それは、迂闊だな。私の娘として身の安全については殊更厳しく教育したはずだが、忘れたか」
「大変申し訳ございませんでした。室内灯を消し、髪を払って静かにカーテンを捲れば警戒は十分だろうと、過信しておりました。危険はできうる限りの対策をしていても訪れるものだというのに、慢心でしたわ」
それで?というように、ロベルティオが右の眉をくい、と上げる。
「今後は決して一人で外を覗いたりいたしません。それに、護身術の訓練ももう一度受けます。短剣を扱えるようになれば、身を守る幅も広がるでしょう」
そっと反省と改善点を述べると、よし、というように頷かれた。
「訓練にはジャッカスを付けよう。あれが一番短刀の扱いが巧い。それから、戦後処理が粗方片付いてきたとはいえ我が伯爵家は狙われやすい立ち位置にいる。重々気を付けて行動するように」
「はい、肝に銘じます」
ふう、とロベルティオが軽く目を伏せて息を吐いた。再び現れた瞳には、もう怒りは浮かんでいなかった。
「リーゼ。無事でいてくれて、本当によかった」
「本当に。心配したのよ。あなたに怪我がなくて本当によかったわ」
「突然のことでびっくりしただろう」
ロベルティオの言葉を皮切りに、母フェリアーゼと兄ラディウスも続いて声を掛けてくる。
温かい言葉に、緊張がふっと緩む。
フェリアーゼが、ロウェリーゼと同じ深い緑色の瞳を潤ませて優しく娘を抱きしめた。
「怖かったでしょう。もう安心していいわ、わたくしたちがついていますから」
とん、とん、と繰り返し優しく背中を叩かれ、つられてロウェリーゼの瞳にも涙が浮かぶ。
「お母様……怖かったです。銀色に光る鏃が、私に向けられていて、それで……」
それ以上は言葉にすれば本当に泣いてしまいそうで、ロウェリーゼは言葉を吞み込んだ。
ラディウスが優しく手を伸ばして、ロウェリーゼの髪をそっと撫でる。
「今日はもう疲れただろう。客間を掃除させたから、今夜はそちらで眠りなさい。兵はいつもの倍、付けよう」
ロベルティオもラディウスの言葉に同意するように頷いている。
「分かりましたわ。お父様、お母様、お兄様、お先に失礼いたします。お休みなさいませ」
フェリアーゼから離れて、就寝の挨拶をする。
「ええ、おやすみなさい」
「良い夢を」
「ねぇ、ニーファ。そういえばなのだけれど」
客間へと廊下を進みながら、ロウェリーゼは斜め後ろを歩むニーファに声を掛けた。
「何でしょうか、お嬢様」
「あのね、襲撃を阻止してくれた騎士様のお名前は何とおっしゃるのかしら? わたくし、お礼を申し上げたいのだけれど」
「……お嬢様、それなのですが」
戸惑ったようにニーファが言うには、襲撃者の身柄を引き受けた兵も、その場で騎士に名前を尋ねたらしい。騒動が落ち着いたら、また日を改めて当主から礼をしなければならないからだ。
しかし、騎士は「仕事の一環のようなものだから」と名乗らなかった。貴族の邸宅に雇われている私兵よりも騎士の方が遥かに身分が高いため、その兵が食い下がることもできずにいるうちに、騎士はさっさと帰ってしまったらしい。
「ただ、しっかりと特徴は記憶していたようです。夜空のような深い藍色の髪に金の瞳で、年の頃は二十を過ぎたあたり。騎士服の肩のラインは三本で縁取りなし、紀章は特に着けていなかったということです。」
騎士服は細かな装飾から相手の階級や功績が分かるようになっている。例えば、肩のラインは家の身分を表していて、三本はたしか公爵家か王家だ。縁取りは役職に就いているとラインを囲むようにしてあしらわれる。
紀章についてはまた別で、何か功績を挙げた場合に国王陛下から下賜されるものだ。
「それで、お父様はなんておっしゃっていたのかしら」
「はい。旦那様は、おそらくサルヴィーニ公爵子息ではないかと仰っておられました。現在王家の方で騎士団にいらっしゃるのは、副団長を務めておられるゼルディオル王弟殿下だけですし、他の公爵家に連なる方々は多くが役職か紀章をお持ちだと。そのお姿からすると、サルヴィーニ公爵のご嫡男ではないかとのことでした」
「そう、サルヴィーニ公爵子息……」
ロウェリーゼは少しばかり考え込む。
この春にデビュタントを終えたばかりのロウェリーゼは、ほとんどの貴族騎士と面識がない。当時は戦時中で、彼らの多くが戦地に赴いていたからだ。
サルヴィーニ公爵子息と言われても、全く思い浮かばない。
「サルヴィーニ公爵子息のお名前は、なんとおっしゃったかしら。たしか、サルヴィーニ公爵家にはご子息がお二人いらしたわよね。ダニエル様と、……ええと、そのお兄様は、アレクシス様だったかしら?」
ダニエルの方は確かロウェリーゼの一つ上だったはずだ。学園に在籍する期間が重複する子息令嬢については一通り覚えたのだが、その中に名前があった。
「ええ、さようでございます。言い切れるわけではございませんが、恐らく先ほどの騎士様はアレクシス様でいらっしゃるだろうとのご意見でした」
「そう……」
アレクシス様、と口の中だけで呟いてみる。社交界で彼について探ってみようか。
「そのためにも、明日から訓練を頑張らなければならないわね」
このままでは、社交界に出られたとしても自由行動を許してはもらえないだろう。気合を入れて励まなければ。
「はい、お嬢様。私も精進いたします」
後ろで拳を握るニーファをちらりと振り返って、ロウェリーゼはふふっと小さく笑った
「ええ。お互い、頑張りましょうね」