月夜の襲撃
その夜は、とても静かな夜だった。
春から夏に変わるまでの長雨の晴れ間、つかの間の晴れ間。久方ぶりに覗いた夜空は、星々を各々の好きなように光らせて、眠る人々をただ見下ろしていた。
だから、私が寝静まった屋敷のバルコニーへと続く窓からそっと外を眺めていたのは、きっと偶然などではなかったのだろう。
そしてその晩彼に出会ったのも、きっと。
「お嬢様。決して夜に外を覗いてはいけませんよ。それでは、おやすみなさい」
「ええ、分かってるわ。おやすみなさい、ニーファ」
いつもの挨拶をして、専属侍女のニーファが下がっていく。部屋にひとりきりになると、しとしとと微かに降り続く雨の音が一層強く耳に届いた。
誰の目もないのをいいことに、勢いをつけてベッドに飛び乗る。
ぼふりと軽い音のあと、少し弾んだ体が止まるのを待って柔らかな肌触りのシーツに顔を埋める。
気持ちいい。このまま眠ってしまいたい。
そんなことしたら、ニーファがまた目を吊り上げて怒るんだろうな。
栗色の髪をきっちりとまとめた彼女が榛色の瞳で睨んでくる姿がありありと思い浮かんで、思わずロウェリーゼは笑ってしまう。ロウェリーゼの母付きの侍女の娘で、幼いころから一緒に過ごしてきたニーファに睨まれても、かわいいだけだ。そんなことを口にしたら、ますます怒らせてしまうのだろうけれど。
つらつらと考えているうちに、ふと、ここ最近絶え間なく響いていた雨音が消えていることに気付いた。
「雨が降っていないなんて、珍しいわね。久々に星が見えるかしら……」
外を覗いてはいけない、と言われてはいたが、少しくらいは大丈夫だろう。一年ほど続いていた隣国オーゼドル王国との戦は、もう三カ月も前に我が国レムフィラトス王国の勝利で終わったばかりだ。もう戦後処理も大分進んで賠償金の額も決まったというのに、警戒し過ぎではないだろうか。
いくら代々国王の腹心を務めてきた名家アスティリオス伯爵家とはいっても、ロウェリーゼ自身は何の権力もない令嬢にすぎないのだから。誘拐ならまだしも、命を狙ったところで旨味はない。
それでも念のため部屋の明かりを消して、夜闇に浮かぶハニーブロンドの髪を手でまとめて背中に流す。これで、カーテンを少し捲って外を見るくらいは大丈夫だろう。
足音を忍ばせて窓際まで進み、そうっとカーテンの端を持ち上げる。
さぁぁ、とかすかな音を立てて暗く沈んだ景色が覗く。王都の街並みは暗いが、王城は煌々と火が灯されている。周辺の貴族の邸宅もそのほとんどにちらほらと明かりがついている部屋が見てとれた。きっと夜遅くまで執務をしているのだろう。
見上げれば、満天の星がちかちかと静かに身を震わせ、満月には程遠い月は冴え冴えとした仄白い道を、王城を辿ってこの邸まで敷いている。
何とはなしに、月から地上へ伸びた光の道を目で辿っていく。
不夜の王城の尖塔を越え、そこから陰になっていったん途切れ、数件おいてとある侯爵家の屋敷からまた続きが始まる。そうして真っ直ぐに、ロウェリーゼの覗く窓辺へと——
「っ‼」
伯爵邸の足元まで辿り着いたロウェリーゼは、咄嗟に息を吞んだ。
白く照らし出された路地に立つ黒ずくめの人影が、ボウガンのようなものに矢を番えてこちらを狙っていた。
まずい!
一瞬、ロウェリーゼの頭が真っ白になる。伏せなければ、と思ったが、その一瞬が命取りだった。もう間に合わない。
十分に狙いを定めていた黒ずくめの影の手から、矢が放たれようとした、その時。
銀色の何かがちらりと月光を反射したかと思うと、男の姿ぐらりと揺らいだ。まるで、何かに殴られたかのように。
そしてその衝撃で放たれた矢は、予定された軌道から外れてロウェリーゼの部屋の窓、彼女から三枚左のガラスに命中した。
バリィィンッ!
けたたましい音を立てて、薄いガラスが砕け散る。ロウェリーゼは背を向けて必死に破片から身を守る。
「お嬢様!どうされました⁈」
「お嬢様、失礼いたします!」
ニーファと不寝番の邸の兵が、騒ぎを聞きつけて迅速に部屋に飛び込んでくる。兵はロウェリーゼを庇うようにバルコニーへ飛び出し、ニーファは「お嬢様!」と悲鳴を上げて主の手を取り、窓とは反対側の廊下と導く。
窓から離れる間際、ロウェリーゼは状況を少しでも把握しようと必死に首だけで後ろを向く。銀色の剣を左肩の辺りに生やして倒れている黒ずくめの人影に、黒い制服をまとった深い藍色の髪の人影が覆い被さるのが見えた。
後から来た人影をよく見られないまま、ロウェリーゼの視界は自分のハニーブロンドに遮られてしまった。