婚約破棄された後、叶わないと思っていた初恋相手に再会しました。
*
「クラリス・ドゥラノワ。君との婚約は破棄させてもらう」
それは、公爵家主催のティーパーティーが始まろうとしているときのこと。
主催であるヴンサン家の令息、シルヴァンは会場である薔薇園に姿を見せるやいなや、高らかに宣言した。
名指しされたクラリスは、友人の令嬢たちと歓談しているところだった。
驚くことも慌てることもなく、すっとシルヴァンの前に歩み出た。
「シルヴァンさま、ごきげんよう」
クラリスは度々理知的と評される伯爵令嬢。王立学院での成績も常に上位だった。
現在は研究室勤めをしながら、家の仕事を手伝っている。
今日はシルヴァンの婚約者として相応しいように、肌の露出を極力抑えながらもビーズ刺繍の華やかな淡いパープルのドレスを身に纏っている。
ほんの少しきつめに見える大きな瞳の色は、ドレスよりも濃いパープル。淡く輝く金髪は結い上げて、造花の赤い薔薇を挿していた。
「ところで今、わたくしとの婚約を破棄すると仰られたように聞こえましたが」
「あぁ、私は確かに宣言した。何故なら真実の愛を知ってしまったのだ。この、ミラベル・バスチエとの間に」
クラリスは、シルヴァンにべったりと寄り添う女性を一瞥した。
何度か姿を見かけた黒髪碧眼の女性。顔にはあどけなさを残しながらも、体つきは豊満。体のラインを強調するような際どいドレスは、鮮やかなピンク色だ。
「やだ、こわぁい。あたしの可愛さに負けたからといって、睨まないでくださぁい」
クラリスの視線に気づき、大げさにミラベルは声を上げた。鼻にかかった、甘ったるい声だ。
言い終わるやいなや、ミラベルはさっとシルヴァンの後ろに隠れる。
(はしたない)
クラリスは辟易したが、表情には出さない。
(多くの人々が見ているなかで、しかも、婚約が正式に破棄されてもいないというのに)
一方で、シルヴァンは腕を伸ばして、ここから先は通さないと言ったような態度を取る。
「クラリス! ミラベルを傷つけようとするなら、いくら元婚約者とはいえ相応の対応を取らせてもらうぞ!」
分かってはいたが、人々の好奇の目は三人に注がれている。
クラリスは反論と溜め息を飲み込んだ。
クラリスが黙っていることを肯定と受け止めたのか、シルヴァンの語気が強くなる。
「そもそも、女のくせに私より賢いということはあってはならないのだ。公爵家に嫁ぐ者は、花が咲くような笑顔と愛嬌さえあればいい。なぁ、ミラベル?」
「はい、シルヴァンさまぁ」
見つめ合うシルヴァンとミラベル。もはや、ふたりの世界。
伯爵令嬢たる矜持を保つためクラリスは反論を諦める。
「……承知いたしました。それでは今後は書面にて、婚約破棄の手続きをさせていただきます」
クラリスはスカートの裾をつまむと、左足を後ろへ引き、右膝を曲げて一礼した。見事なカーテシーに、一部から感嘆が漏れた。
くるりと踵を返したクラリスは、背筋を伸ばしたまま薔薇園を後にする。
「はぁ……」
公爵家の館を出て、ようやくクラリスは長い溜め息を吐き出した。
(パーティのはじまる前でよかった。これくらいの時間ならひとりでも帰れるもの)
空は青く、陽はまだ高い。
王都のなかでもこのエリアは特に治安がいいので、日中ならば馬車を呼ばずとも帰れる。
とはいえ、婚約破棄を聞きつけた家から迎えが飛んでこないとも限らないだろう。
(そうだわ。せっかくだし、寄り道をして帰ろう!)
薔薇園での出来事はすっかり忘れたかのように、クラリスは軽やかに歩き出した。
*
クラリスが向かったのは公爵家からすぐの噴水広場。
女神像の噴水を眺められるベンチに腰かけて手袋を脱ぐと、膝の上に載せた。
青空が眩しく、目に染みる。
クラリスはそれでも空を見上げた。
(初恋が実らないというのなら、せめて家のために結婚しようと考えたのに)
伯爵家に生まれたクラリスには平民の幼なじみがいた。
名前をアンリといい、伯爵家に仕える図書係の息子だった。
図書室に入り浸っていたアンリは、家庭教師のいるクラリスよりもたくさんのことを知っていた。
『アンリには知らないことがなさそうで羨ましいわ』
『恐れ入ります。ただ、僕だって知らないことばかりです。願わくば、もっと、もっと勉強したいです』
同年代の子どもより小柄で、黒縁の眼鏡をかけていたアンリ。
少し気弱なところが貴族の子どもたちと違って親しみやすいとクラリスは感じていた。
――それが恋だと気づいたのは、アンリがクラリスの前からいなくなると決まったとき。
アンリの聡明さに投資を決めたクラリスの父親が資金援助して、遊学することになったのだ。
『頑張ってね。あなたは必ず、王国の発展に寄与できるような人物になるわ』
胸が痛んでいることは決して知られないように……。
精一杯の笑顔で、クラリスはアンリを送り出そうとした。
『お嬢さま、ひとつだけお願いがあります』
出逢った頃にはクラリスの方が上だった背丈は、そのとき、同じくらいになっていた。
『何かしら?』
『約束させてください。必ずお嬢さまと釣り合う人間となって、お迎えに上がります』
はいともいいえとも答えずに、クラリスは微笑みを返した。
伯爵令嬢と平民。
身分差は埋められない。よほどのことでなければ婚姻関係を結べない。
(そんなの不可能だって、頭のいいアンリなら分かっている筈)
いつかアンリもアンリで、相応しい相手に巡り合うだろう。
その未来はクラリスの胸に否応なく突き刺さった。
やがて、クラリスも公爵令息との婚約が決まった。
ヴンサン公爵家は浪費が激しく評判も決してよくはなかったが、ドゥラノワ家と同じ派閥だったために婚約を受けざるを得なかった。
(婚約破棄、されてしまったけれど)
クラリスは髪に挿していた赤い薔薇を抜き取った。
造花の髪飾りは貴族の間で流行っていて、例に漏れずクラリスも取り入れている。
ふぁさっ。
「……?」
不意に、クラリスの視界に白い薔薇が映った。
顔を上げると、白い薔薇は一輪ではなく花束。どうやら花束から抜きとった一輪が視界に入ったようだ。
「クラリスさまには、赤より白がお似合いですよ」
聞きなれない男性の声に、クラリスは眉をひそめた。
名前を呼ばれたことへ警戒心を露わにする。
「……失礼ですが、どなたかしら?」
「失礼いたしました。突然伯爵家のご令嬢にお声がけするのは、宜しくないことでしたね。お姿をお見かけして、ついご挨拶をせずにはいられませんでした。私は、アンリ・フゥファニィと申します」
薔薇の花束で見えなかった男性の顔が、ようやくクラリスの視界に入った。
栗色の髪と蜂蜜色の瞳という組み合わせには心当たりがあった。
しかし。
(アンリ……? あのアンリの姓は、プィチだったはず……?)
すっと通った鼻梁、薄い唇。少し冷たい顔の輪郭。
すらりと背が高く声の低い青年は、クラリスの記憶に存在しない。
さらに、図書室のアンリはこんな風に流暢に語ることのできる性格ではなかった。
アンリと名乗った青年は片目を瞑って、楽しそうに告げた。
「クラリスお嬢さま。このアンリ、あの日の約束を果たしにまいりました」
「待ってちょうだい。ほんとうにアンリなの……?」
クラリスは驚いて立ち上がった。
頭みっつ分の身長差。
まるで貴族のような身なりのアンリは、懐から黒縁の眼鏡を取り出してかけてみせた。
「この度、侯爵家の養子となりました」
それでもなお、クラリスは違和感を拭い去ることができない。
「き、聞いていないわ」
「王都へ戻ってくるまでは伏せておいてもらうように根回ししていたからです」
(フゥファニィ家。たしか、北方の中立派。ゆくゆくは爵位が上がるだろうと噂される名家。そこに、アンリが?)
同時にクラリスは納得した。
(アンリの頭のよさは、平民のままでは活かしきれない。侯爵家と縁を持てたのは双方にとって利益となる。だけど)
「養子になるなら、ドゥラノワ家という選択肢もあったのでは?」
子どもの頃から出入りしていた伯爵家だって、養子縁組を提案していたに違いない。
クラリスが思ったことをそのまま口にすると、アンリは眉根を寄せた。
「ドゥラノワ家へ入ったら、クラリスさまへ結婚を申し込めないからです」
「……? 何を言っているの? 思考が追いつかないんだけれど」
「王都を離れる際、私は伯爵とも約束をしていたんです。まさか王都へ戻ってきたその日に、クラリスさまが公爵令息から婚約破棄されるとは思っていませんでしたが……」
伯爵家を訪問した際に婚約破棄されたことを知らされ、急いで花束を用意しました、とアンリは続けた。
「クラリスお嬢さまは私がお迎えに上がりますと伝えると、伯爵は安心されたようでした」
「お父さまが……」
(やはり、公爵家での出来事はすぐに知らされていたのね)
申し訳なさで溜め息をつきたくなったが一旦飲み込み、クラリスはアンリへ問いかけた。
「それで、約束というのは?」
「もしクラリスさまが婚約破棄されてしまうようなことがあれば、私がすぐに婚約を申し入れるという約束です」
「……え?」
クラリスは瞬きを繰り返す。
「中途半端な家との婚約ならば、伯爵家との縁を強くしたい相手側から破棄されることはないでしょうが、位だけでなく悪評も高い公爵家であればこうなることは予想できていましたから。まさか、あんな簡単に落ちるとは」
アンリは人差し指を立てて、己の唇へと当てた。
「バスチエ男爵家は資産枯渇諸々により間もなく男爵位を剥奪されるでしょう。ご令嬢は復興のために多方面へ必死になられているようですが、どうなることやら」
悪戯好きな子どものように片目を瞑るアンリ。
クラリスはわざとらしく肩をすくめてみせた。
「……驚いた。あなたって、そんな策略家だったかしら」
「平民から貴族になるために、色々と勉強させていただきました」
アンリがわざと恭しく頭を下げてくるので、クラリスはつい吹き出してしまった。貴族らしからぬ反応をしてしまったことに慌てて口元を隠す。
「クラリスさま。お返事を伺いたいのですが?」
すっと見据えてくるアンリに対して、クラリスは、改めて背筋を正す。
「アンリ・フゥファニィさま。その申し出、心から喜んでお受けいたします」
ふわっとアンリが破顔する。
それから、花束から抜いたままの白い薔薇を、クラリスの髪へと挿した。
「やはり、赤より白が似合いますね」
「ありがとう」
「隣に座ってもよろしいでしょうか?」
「もちろん」
少し距離を置いてアンリが腰かける。
ふたりの間には白い薔薇の花束。そして、爽やかな風が吹き抜けていった。
(嘘みたい。アンリが、わたくしの隣にいるだなんて)
クラリスの胸は静かに高鳴っていた。緊張と昂揚を知られたくなくて俯くと、言葉はさらに出てこなくなる。
しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのはアンリだった。
「最近はどんな本を読んでいますか?」
「建国神話と史実を照らし合わせようとした研究者の論文がとても面白くて、全百巻なのだけど、ちょうど五十巻まで読み終わったところよ。……」
本の話題になり、表情明るく一気にまくしたてたクラリス。
しかしアンリが微笑みながら見つめてきていることに気づいて、しまったという表情に変わる。
「少しも変わっていなくて安心しました」
くすくすとアンリが笑みを零した。
「……恥ずかしいわ」
「何故? 昔だって、本の話ばかりしていましたよ」
そのとき、クラリスは気づいた。
(シルヴァンには難しい本ばかり読んで、と非難されていたけれど。アンリは、決してそんなことを言ったりしないんだわ)
ようやく心を覆っていた雲が晴れていくようだった。
「アンリは、どんな本を?」
「私ですか?」
噴水に虹が浮かび上がる。
アンリはクラリスの耳元へ顔を近づけて、そっと囁いた。
「平民がずっと好きだった貴族令嬢と結ばれる戯曲を読んで、想いを馳せておりました」
それからアンリはそっとクラリスの手を取る。
「……何に?」
「もちろん、クラリス様に」
ふたりが見つめ合った後。
アンリは、クラリスの手の甲へ口づけた。
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