短編 雨宿り
スマホへの新しいメッセージを知らせるLED。今日は何の話だろう、と画面をスライドさせる。
「今さ、降られちゃってさ」
彼女からのメッセージに何と返すべきだろうか。迷っている間にも続きのメッセージは来ない。階段を降り、母へと一言伝えると傘を持って家から出る。
先程テレビで見た天気予報の通り、雨が降っている。恐らくはいつもの場所から送ってきたのだろう。迎えに行く訳ではないが、もしかしたら違う用件なのかもしれないと、公民館へ向かう。
こじんまりとしたクリーム色の建物が見え始める。入り口の横にある、昔は大きく見えた黒板と赤い屋根。その下に、やはり彼女は居た。
僕を見つけたのか、こちらに背を向けて手を動かしている。何かを書いているのか、それとも消しているのか、ここから判別出来ない。目的の人物を見つけられたので、もう急ぐ必要はないだろうと速度を落とし、彼女が何かを終えるまでの時間を作る。
「いやー、まいっちゃうね。ここまで急に降り出すとは思ってなくてさ」
「天気予報、見てなかったの?」
「まぁ、色々とありましてねぇ。スマホの充電も切れちゃって退屈してたところなんですわ」
「それで途中で切れてたのか。迎えに来て欲しかった感じ?」
「それもある。しかしそれではない」
「よくわかんねーな。んで、どうしたの」
改めて彼女に用件を聞く。数瞬の後、「傘を持ってきて欲しかったんだけど、伝わらなかったみたいだね」と少しだけ厭味のように言われた。確かに出かける時にもう一本持っていくべきかと考えたけど、そもそも必要な状況かが分からなかったし、一本あればなんとかなるだろうとも考えていた。
「一緒に入るか」なんてとても言い出す事が出来ない。取りに戻ろうかと切り出すと、いやいや降り止むまで待つさ、と空を見上げ始めた。
先程までは軽めの雨だったが、雲の色がだんだんと濃くなる。
「前にさ、書店で会った人の事を話してたじゃん?」
「あー、そんな話もしてたね」
まるで忘れていたかのように、話を合わせる。
「んで、今日は勇気をこれでもかってぐらい振り絞って、告白してみたのよ」
その言葉が胸を鷲掴みにする。ただ、彼女の表情が空と同じ色をしているのを見て、何も言うことが出来ない。
「なんかこう、やっと諦めがついたというか。でも悔しいなー、なんか叫びたいなーと思ったから、ここに来ちゃったんだ」
手持ち無沙汰、といった感じで指を擦ってる。その落とした視線はどこかぼんやりとしていて、何を話すべきか自分でも分からないように見えてしまう。
僕もどこに目線を合わせれば良いか分からなくなり、左右を見回し、後ろを振り向いた。
「らくがきひろば」と印字された黒板に広がる、何かを消した跡。利用者が少なくなって表面の塗装も薄くなりつつある、その壁に付いた真新しいチョークの粉。さっき何かしていたのは、きっと僕には見られたくない何かを消していたんだろう。
「懐かしいよね、これ」
「最近は結構見てたから、そうでもないかも」
「よくピンクのチョークを奪い合ってたよなぁ」
「結局落として二つに割れたのを、それぞれ使ってたね」
「折っちゃうのが勿体なくて折れなかったけど、結果オーライってとこだったな」
「まあね」
もう一度、白いチョークを手に取る。久しぶりの感触は思ったよりもすべすべしていて、冷たい。何かを書こうかと迷ったけれど、結局そのまま黒板の下の溝へと戻す。
「何か書けばいいのに」
「んー、何もないしなぁ」
「まだまだ雨も降り止まないし、何書くかなー」
言いながらも何かしらの文字を書き始める。数度黒板を打つ、こつこつという音が続いた後、満足したようにチョークを置いた。
「字、キレイでしょ」
「そうでもない」
「いやいや、そこはノッておけよー」
書かれたその文字を眺める。特に綺麗でもないし、汚くもない。ただ、自分に言い聞かせるためだけに書かれたような、その四文字がくっきりと白く浮かび上がって見えた。
先程よりも強くなった雨音が、会話の途絶えた二人の間に響く。数分の間、二人でその文字を見つめていた。そして何かが吹っ切れたかのように、乱暴にその文字を消し去った。
「さて、帰りたいけれど傘は一本なのですよ、誰かさんが気を利かせてくれなかったおかげで」
「……それは申し訳ない」
「いやいや、責めてるわけじゃねーし。こっからならウチの方が近いよね」
「そのはずだけど。どうするんだ?」
「ちょっと貸してくれたらササっと取ってくるからさ。ほれ」
傘の柄をこちらに寄越せと手を差し出してくる。閉じた傘の冷たい雫が、この後どうなるのかと僕らを見守っている。
「あー、俺も一緒に」
「ん?」
「いや、ほら。使えよ」ぶっきらぼうに、傘を差し出した。
「ほいじゃ、行ってきますかね。ちょっと時間がかかるかもしれないけど、一人で待ってられる?」
「子供じゃないんだし、大丈夫だよ」
「んでは、また後で」
ひとりきりとなってしまったが、そんなことより考えなければならない事があった。言うつもりなんて無かったのに、なぜ口走りそうになったのかを。あのまま言ってしまったらどうなっていたのか……いや、言わなくて正解だったんだ。
ぐるぐると回り続ける流れるプールのような頭を、無理やり切り替える。このもやもやとした気分は、親父に色んな質問をしたあの日に感じたものと同種のものだった。
あの日、親父は何と言ってたんだっけ。
◆
「小さいのにちゃんと青春してんのな」
「なんのこと?」
「まぁ、いずれ分かるさ。その時に覚えてるかどうかは抜きとして、こういう感じのものだな」と、親父がテーブルの上のオレンジを手に取った。
「お前がもっともっと小さい、これぐらい小さい時に、テーブルの上のオレンジを丸かじりした事があったんだが、覚えてるか?」
「ぜんぜん」
「だろうな。多分いい匂いがして、ぎりぎり届くかどうか分からない所に出しっぱなしにしてあって、たまたま歯が生えて掴まり立ち出来る頃だった」
ひざもとあたりに手をかざす親父に、僕はそんなに小さくないよと確か反発していたはずだ。
「まぁ、その時の味は全然覚えてないだろうけど、最初に苦味がくっと来て、その苦味もなんとか食える程度で。それでいて奥にある果実の甘みやすっぱさもあって、不思議に思うだろうな」
「ぜんぜん分かんないんだけど、おいしくなさそう」
「そう、苦さでうぇってなった後に、もう一度かじりつくかどうかは人次第。俺は苦すぎて吐き出しちまった」
「それがせーしゅんなの?」
「あくまでパパがそうだっただけさ。もっと色んな形の青春があるってことだよ」
◆
青春、してるのかな。彼女からのメッセージに「男の人って何が好きなん?」とか、「何を言ってもらったら嬉しいのかな」とか。そういうメッセージを見る度に嫌な気持ちになってしまうのも、青春なのか。吐き出したいよ、こんな味がするんなら。
でも、今の彼女にそんな言葉をぶつけたって、何にもならない。後ろ向きな気分の時に言うなんて卑怯な気がする。この気持ちが、さっき「一緒に帰ろうか」と言いかけた自分を踏み止めさせてくれた、最後の壁。
雨はまだまだ降り止まない。そして彼女もまだ戻ってこない。
それぞれ公立と私立の学校で分かれてしまって、会うことも少なくなって、でも困りごとや悩み事はメッセージでやり取りできて。極稀に凹んでこの場所で会ったりして。そんな距離感で十分楽しいなと感じていたのに。そう、家で今日のメッセージを読むまでは。
夏休みの課題をこなしていた、そしてまだ国語の課題……夏らしい川柳を作って持ってきなさい、というのがクリア出来ていなかったのを思い出す。
戻ってくるまで、こんな悩んでいる時間があるなら少しでも有効活用しよう。チョークを手に気持ちを塗り替える。
夏らしさって何だ、こんな天気も夏らしいのかな。空を見上げつつ、思いついた単語を黒板に並べていく。
弱まってきた雨の音と、リズミカルなチョークの音が混ざり合う。独特の書き味が、昔を思い出してスピードを上げる。
「降り止まぬ 夕立の空と 君見上げ」
何となく、この単語たちだけが残った。提出するのも少し恥ずかしいけれど、課題なんて適当にこなせばいいし、すぐに忘れる。家に帰ったらとりあえずノートに書いておいて、別のかっこいいのが出来たらそっちにすればいいし。
「何してんの」
「うぉっ!」
「ほほう、なかなか詩人っぽいですなぁ」
にやにやと、意地の悪い笑顔で彼女が立っていた。心臓が今にも口から飛び出しそうなほど激しく動いている。
「何でもないし、ほら、さっさと返せよ」
「まだ自分の差してないしちょっと待ってよ」
「仕方ねえなぁ」
見られた、という恥ずかしさで顔が真っ赤になっているはずだ。誤魔化すように乱暴に言ったけれど、きっとバカにされるに違いない。
「ちょっと紐の部分が絡まっててさ、悪いけどちょっと先行ってて、すぐ追いつくから」
「わかった、ゆっくり歩いておくわ」
「ん、さんきゅ」
しばらくすると、後ろから派手な足音をさせながら、彼女が追いついてきた。
「ほいほい、おまたせ。何か話しながら帰るかー」
「課題とかそっちも出てるのか」
「プリント関係は結構出てる。歴史とか古文のが面倒だなーって感じ」
「古文も出るのか、大変そうだな」
「まぁ、適当に片付けるだけだし」
「だな」
同意見のようで、何故か安心した。事務的に出されたものを事務的にこなす、そういうのも良いんじゃないかと認められたような気がした。
翌朝、早くもうだるような暑さの中で自転車を止めた。昨日の恥ずかしさを消さずに帰ってしまったことを、すっかり忘れていたのだ。ベッドに入ってから思い出したものの、明日でいいやと寝てしまった。
そこには何者かが付け足した、下の句のようなものが残っていた。
「降り止まぬ 夕立の空と 君見上げ」
「見上げるよりも 前向け少年」
その三文字に、昨日は自分のための四文字だったものに、犯人の目星はすぐに付いた。これを書いたということは、何かしらの整理が出来たという事なのだろう。
他の誰かに見られる前に、黒板消しでゆっくりと、二人の文字を消した。
まだまだ読みづらいかもしれません、申し訳ありません。