特設艦隊
戦前、日本が大日本帝国だったころ、手野武装社は艦隊を持っていた。
今の手野武装警備の前身である。
勅令により指定された武装警備業を営む会社については、指定武装警備社とされ、別表にある艦種を製造することができるようになっていた。
それにより編成された艦隊は、法律上特設艦隊と呼ばれ、海軍の補助にあたるとされた。
後には、軍艦を建造し、それにより特設艦隊を作ることができた唯一の民間企業により、手野艦隊と俗称されるようになる。
国際法により、現役の又は予備役の士官を艦隊司令官、艦隊司令、艦長、艇長として迎え、以下の人物を全て自社で賄うという形式を取っていた。第一次世界大戦時には、第一特設艦隊が北海へと派遣され、米英軍と共闘している。
また、軍縮時代であっても、民間であるとされ、国家間の条約には縛られないことが明確化された。
ただし、これにより、アメリカには民間艦隊ができるようになるが、手野艦隊と同規模の艦隊を編成できたのは、ただの1社もない。
唯一、テック・カバナー財閥が、手野艦隊の半分程度の規模で建造することに成功しただけである。
この規模のため、大本営に代表者を派遣する権利があり、さらには海軍省や陸軍省に対しても物言いをすることができるようになった。
それがために、2.26事件において襲撃対象の一つとされ、当時九段下にあった手野武装社特設艦隊総指揮部を急襲し、一時的に無力化されることとなる。
なお、緊急電信により、総指揮部がその指揮能力を喪失すると同時に、手野統括が一時的に権限を継承し、さらに戒厳令布告により、戒厳司令部にその権限が移った。
戒厳令が解除されると同時に、通常業務へと戻ることとなる。
第二次世界大戦開戦時点で、手野艦隊は南洋に2個、本土に4個、さらに予備艦隊と呼ばれる二線級艦隊が5個あった。
さらに、南洋の1個艦隊、本土の3個艦隊には、正規空母が配置され、世界にも類を見ない大規模な艦隊が出来上がっていた。
当然、海軍は海軍で艦隊を保有し、これらを合わせて連合艦隊を組織していた。
戦時中は、より早い建造が可能となる戦時標準船体を設計し、今でいうブロック工法により大量に建造が可能となった。
しかし、いくら早く作ったとはいえ、それは当時の日本にとって、ということである。
アメリカの技術力にはかなわなかった。
さらにいえば、指揮権を持っているのは海軍のみであり、手野武装社側は、作戦単位のみの関与が許されることとなった。
大本営では、オブザーバー扱いで臨席することが可能となったが、これも相当な譲歩を陸海軍が行ったからである。
元々は、完全に締め出そうとしたほどだった。
敗戦直前には、南方に8個艦隊、本土に4個艦隊を配属していた。
南方の艦隊のうち4個艦隊は未だ空母と戦艦があり、米豪分断に貢献していた。
それでも抗いきれず、終戦を迎える。
この終戦の時、各艦長は退艦と武装解除を命じられたものの、手野艦隊のうち、最大の戦力を持っていた第一から第四特設艦隊については、GHQは発見することができなかった。
見つかったのは海軍籍を有する現役士官のみであり、彼らがいうには、島に放置され、艦隊はどこかへ消えたという。
これ以後、サンフランシスコ平和条約締結を過ぎても、これらの艦隊は行方知れずとなる。
砲撃音を聞いた、あるいは戦時中の戦艦を見たという噂が、インドネシアやフィリピンであったものの、それが真実かどうかは誰も知らなかった。
1972年、新しく武装警備業法が制定されると、これにより民間企業が内閣からの承認を経て武装と呼ばれる火器を保有することが許された。
それの施行された1972年4月1日に、残された手野艦隊が現れた。
噂通り、それが隠されていたのはフィリピンとインドネシアであり、後に手野グループはそれぞれの国に数千億円の金を支払って和解している。
戦前の艦隊が再び見られるとあり、帰港時には、数多くの人が見学に訪れた。
これらのうち、第一特設艦隊は関西地方、第二特設艦隊は北海地方、第三特設艦隊は小笠原諸島の手野島、第四特設艦隊は沖縄地方にそれぞれ展示されて、現地の海上自衛隊の最上位の階級者によって観艦式が催された。
今では、特設艦隊は新たなものとなって、航行されている。




