パナマ運河を越えて
パナマ湾から100kmの所でパナマ湾に向かう大型の貨物船を見つけ、その下に潜り込めたのは幸運だった。
貨物船の左斜め後方=タンカーのかき分ける波の後ろ、にシュノーケルを出して航行する。
この任務のために排気を目立たなくする装置を付けてあるとはいえ、貨物船の船員に見つからないかとひやひやする。
潜望鏡で貨物船の動きを見ながらの一瞬も気が抜けない航行だった。
『すっぽん』の最大潜水深度は20mしかないから、『すっぽん』を切り離さない限りそれ以上は潜れない。見つかったらこの任務はおしまいだ。
ただ、こうして貨物船の下に潜り込めたので、上からは船の陰に隠れて見つかりにくく、その音にまぎれて聴音器で見つかる心配は薄そうなのが救いだった。
胃が痛くなるような時間が続き、ついにパナマ運河の入り口にたどり着く。
情報収集艦によるパナマ運河の管制無線の傍受によって、すでに目標のタンカーの位置は分かっている。
目標のタンカーが運河に入るまで、後3時間。
それまでの間に、『すっぽん』をくっつけなければならない。
運河の順番待ちのために停泊した貨物船の下を離れ、艦は未明の闇の中潜望鏡深度でゆっくりとそのタンカーに近づいて行った。
「総員、食事開始。」
艦がパナマ運河の近くに達する頃、『すっぽん』の中では司令の号令一下、全員が乗り込む時に受け取った握り飯を食べ始めた。
『すっぽん』の中で火を使う余裕はない。これから先は、乾パンなどの保存食だけで済ませる事になる。
艦の乗組員達と同じ釜の飯を食うのは、これが最後になる。
そしておそらくは、これが生涯最後の米の飯だ。
皆、握り飯を良く噛み締めて味わった。何人かは、そっと涙をにじませながら。
そして、皆が握り飯を食べ終えた頃。
「目標船に接近。離脱準備願います。」
艦からの通信が来た。
いよいよだ。
「補機関、起動。」
「観測窓開放、総員配置に付け。」
皆、気を引き締め、配置に付く。
「目標船、真下。」
「後方ウインチ全開放。浮上開始。」
吸盤がふくらみ、『すっぽん』がゆっくりと艦を離れて浮き上がる。
後方ウインチからワイヤーが外れ、前方ウインチのフックがそのワイヤーからすっぽ抜ける。
「前方ウインチ巻取り。」
前方ウインチにワイヤーが巻き取られる。
これでもう後戻りは出来ない。
『すっぽん』はゆっくりとタンカーの船尾近くを目指して浮き上がって行く。
「右、少し寄せ。微速前進。」
あと2m、1m・・・
ふくらんだ吸盤が、タンカーの後方の船底に接触する。
風船のような吸盤だけに振動も音も発しない。
「吸引、開始!。」
吸盤の真ん中の穴から吸引が始まり、吸盤が吸い付き始める。
「吸盤吸着開始!。」
吸盤がゆっくりとしぼんで行き、吸い付く面積がどんどん増えていく。
「吸盤内、負圧確認。」
「吸着完了!。」
とりあえず、これで目標のタンカーにくっつく事が出来た。
司令は、ほっとひとつ息を吐くが、すぐに気を引き締める。
まだ終わっていない。
「シュノーケル、展開!。」
アームがゆっくりと動き、吸気側ホースを持ち上げて行く。
「通気、確認!。」
「シュノーケル、深度そのまま、横移動で船体に固定。」
アームが先端に付けられた電磁石で、タンカーの船体に吸い付く。
そして排気側も付けられる。
「『すっぽん』、吸着操作完了した!。」
司令が、艦への通信装置に向かって言う。
「ご無事で。任務成功を祈っておりますっ!。」
艦との通信ケーブルが外される。
こうして『すっぽん』は、パナマからワシントンDCへの3400kmの壮途へと就いたのだった。
やがてタンカーが動き出す。
いよいよパナマ運河を越える事になる。
パナマ運河を通行可能な船の最大喫水は12m。このタンカーの喫水は5m。『すっぽん』の吸盤からタイヤの下端までの高さは4mあるから、一応3mの余裕がある事になるが・・・
「やはり、冷や冷やしますね。」
「底につっかえないにしても、人目の多い場所だ。シュノーケルを発見されたら大変だしな。」
シュノーケルの展開は運河通行後にすべきかとも思うが、運河の通行には24時間かかる。
狭い艇内に30人が乗っている『すっぽん』にとって、それは運河の終点で全員が窒息寸前になる事を意味した。
ゲートをひとつ、またひとつと越えていくのが揺れで分かる。
誰もが息を潜めるようにして、ゲートを越えるのを待った。
そして、やっとゲートを抜け運河内の航行が始まる。
とりあえず、ゲート付近に比べればはるかに人目は少なくなる。
全員が、ひとまずほっと息をつき、食事となった。
とりあえずの、穏やかな航海。
敵地のど真ん中を進む尻の下がもぞもぞするような緊張がある、それでいてのんびりとした航海。
皆、微妙な笑顔をして、その時間を過ごした。
そして、ふたたび息詰まるようなゲートの通過を経て、ついに『すっぽん』は大西洋(カリブ海)に出た!。
大騒ぎしたいのをぐっとこらえて、みんながこぶしを突き出して笑顔を見せる。
司令の顔にも、ほっとした表情が浮かぶ。
さて、これでワシントンDCまで約5日間の航海だ。
吸い付いている船は船員が少ないタンカーだし、まず見つかる事はないだろう。
そのあとのワシントンDC襲撃に気持ちを引き締めるものの、大きな山のひとつは越したのだった。
船に吸着して航行している間は、補機関も止められ、通気と吸盤吸着の維持は交代で手回しハンドルとペダルを使って人力で行われる。
これは燃料の節約というよりも、航行中やる事がなくて体力が衰えるのを防ぐためのものだった。
当番の兵が、鼻歌を歌いながらペダルを踏んでいる。
「おい、緊張感が足りんぞ。」
「はっ!、申し訳ありませんっ!。」
兵はあわてて敬礼するものの、その表情はどこかおどけている。
叱った司令の方も、その表情は半分笑っている。
「穏やかな良い航海ですね。」
「そうだな、今頃内地や南洋で行われている戦いの事を思うと、申し訳ないくらいだ。」
司令は、じっと遠くを見る。
海軍陸軍を問わず、南洋の島で、食料もなく弾薬も尽きて絶望的な戦闘を続ける仲間達。
あと数日で我々も玉砕する事になるが、大きな目標を与えられ、飢餓に苦しむ事もなく、こんな穏やかな日々まで与えられて・・・。
我々は幸せな方だな、と思う。
何としても作戦を成功させなければ!。
ぎゅっと唇を噛む司令だった。
大西洋に出て4日目の事だった。
「探信音確認!。」
聴音当番の兵が小さな声で叫び、艇内に緊張が走った!。
皆、息を潜める。
通気当番の兵も、心持ちそっとペダルを踏み、ハンドルを回す。
あと1日でワシントンDCだ。やはり米も、首都近辺の海では警戒を怠っていないという事だろうか?。
海でそうなら、ワシントンDC市内の警備はもっと厳しいだろう。
司令は、任務の困難さを思い、そっとこぶしを握り締めた。
同じ頃、ホワイトハウス。
大統領は、情報部から上がって来た報告書を机に叩きつけ、ふっと息を吐いた。
「まったく。この期に及んで日本がワシントンDCを襲撃するなどと言う夢物語を信じて・・・情報部の連中は、敵の言う事を鵜呑みにするしか能がないのかっ!。」
それは昨日上がって来た報告書で、それには、日本が潜水艦を使って1個師団の兵力を運び、ワシントンDCを襲う計画である、と書かれていた。
その根拠として、アドミラル山本がワシントンDCを攻撃するために計画し建造が進んでいた巨大な潜水艦が完成したらしい事、それがどうやら出航したらしい事、その潜水艦で構成された艦隊が出撃し、それには1個師団の兵力が乗っているらしい事、が日本軍の暗号を解読して分かったと書かれていた。
「まったく、そんな夢物語を真に受けるとは。情報部は現在の戦況を判断材料に使う頭すらないのか!。」
とはいえ、情報部の報告を完全に無視しては、今後の情報部との関係にヒビが入りかねない。
だが、すでに負けかかっている敵を恐れて、前線から遠く離れた首都近辺に仰々しく艦隊を配置するなど、合衆国の沽券に関わるというものだった。
そこでしかたなく大統領は、独のUボートが減って余っていた駆逐艦をチェサピーク湾周辺に演習という名目で配置させたのだった。
「市内はどうします?戦車でも配置しますか?。」
副官がすっとぼけた口調で聞く。
「そんな仰々しい事が出来るかっ!。合衆国の沽券に関わる。ペンタゴンにでもしまって置け。」
緊張に包まれた1日だったが、結局発見される事もなく迎えた5日目。
「真水に変わりました。予定通りポトマック川に入ったようです。」
皆が顔を見合わせる。
いよいよだ。
ワシントンDCまで、あと4、5時間。
ルーズベルトの首を取る!。
この分では、市内の警備は予想より厳しいようだ。
司令と参謀は、地図を広げ、上陸地点と侵攻経路を確認し、もう一度途中経路の問題点を洗い直し、いくつかの状況に応じた作戦の変更計画を立てる。
兵達(と言っても、事前の2階級特進で皆士官だが)は、もう一度各段階の手順を確認し、準備を整えながら、タンカーがワシントンDCに近づくのを待った。