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喫茶物語  作者:
6/11

六 メリサ・アルブレア 後編

 三つ編みの少女は、長内香織と名乗った。都内の高校に通う学生で、ピアノのコンクールに出場していたところ、頭上から照明が落ちてきたらしい。そこからの記憶はなく、気が付くとこの店にいたのだという。

 私は長内さんに、この店の――この世界のことを知っている限りで説明した。

 ここが死後の世界だということ。心残りを抱えた死者がこの店にやって来るということ。そして心残りを昇華した人は、店のドアから外へ出て消えていくこと。

 長谷川さんは困惑していたが、自身が死んだのだということに関してはあっさりと受け入れているようだった。

 感情的になっていたメッシちゃんも今は落ち着きを取り戻し、またピアノの鍵盤を見つめていた。


「ねぇ、さっきの話だけど、長内さんはメッシちゃんと一度会ってるんだよね?」


「え、ええ……もう五年も前ですけど……都内のコンクールで」


 五年前となると、長内さんが小学生のときのことになる。でもそれだとおかしくないだろうか。メッシちゃんが今小学生だから、そこから五年遡るとなると……


「失礼なこと考えてないかしら。私は十四歳よ」


 私の視線から考えていたことを読み取ったのか、メッシちゃんが不機嫌そうに答えた。


「十四……」


 中学二年生ぐらいの年齢だ。とてもではないが、メッシちゃんは中学生には見えなかった。


「私も驚きました。コンクールで見たときと、まったく変わっていないので……」


「悪かったわね、成長が止まっていて」


「あ、そ、そういう意味で言ったんじゃないですよ!」


 半ば拗ねたようなメッシちゃんの物言いに、長内さんがあたふたする。


「でも、そうなるとメッシちゃんは九歳のときに受賞したってこと?」


「そうなんです。ちょうど私の前がメリサさんで、私は舞台袖で彼女の演奏を聴いたんです。衝撃でした。私なんかとは次元が違ったっていうか、心に何か訴えてくるものを感じたっていうか」


「…………」


 メッシちゃんは何も言わない。話は聞こえているはずだが、今度はだんまりを貫いている。ただその瞳の中に、何か虚しさのようなものが見え隠れしているように見えた。


「それからも何度も色々なコンクールで賞を取って。母親があの有名なクローディア・アルブレアということもあって、雑誌にもたくさん取り上げられて。演者の中でメリサさんを知らない人はいないぐらいに有名なんですよ」


「クローディア・アルブレア? 有名な人なの?」


 聞いたことのない名前だった。私が音楽に疎いから知らないだけで、その道の人には有名な人なんだろうか?


「イギリスで凄く有名なピアニストだったんですよ。ピアノを習いだしたのも、偶然彼女のCDを聞いたからなんです」


「ピアニスト、だった? 今は違うの?」


「ええ……私が物心つく前に既に引退していたんですよ。事故で利き腕を怪我したらしくて……怪我の後遺症でもう演奏を続けることが出来なくなったんです。だから今だと、CDでしか彼女の演奏は聞けないんです」


「ふぅん……つまり、メッシちゃんは母親の夢を継いだってことなのね」


「……そうね。マムは自分の夢を私に託した」


 ここでようやくメッシちゃんが口を開いた。その声は静かで、何の感情も篭っていないように感じられる。


「マムは私が幼い頃から何度も言い続けてきたわ。誰もが認める世界一のピアニストになれと。自分に出来なかった夢を、代わりに私に叶えてほしいと。貴方なら出来る。私の子どもだから。そのために必要なもの全てを用意する、ってね」


「素敵な話じゃないですか」


 長内さんの言葉に、メッシちゃんは小さく頭を振り、


「素敵? どこが。夢を託すなんて聞こえはいいけれどね、現実はそんなに綺麗なものなんかじゃなかったわ。マムにとってはピアノだけが全てだった。それ以外のあらゆるものは必要ないと切り捨てられた。ピアノにだけ集中出来るようにと、学校へも行かせてもらえなかった。語学はマムが雇った家庭教師が毎日教えに来たわ。一日数時間の授業が終わると、あとはひたすらピアノの前に縛り付けられた。指が攣ろうと、手首を痛めようと、止めてくれと泣いて懇願しても、お構いなしにマムは何度も何度も私にピアノを弾かせ続けたわ」


 長内さんは言葉を失っている。いや、それは私も同じだ。メッシちゃんの演奏を私は一度も聞いたことはないが、長内さんの語りを聞いていると、それは凄いものだったのだろう。しかしその裏側には、血も滲むような努力があった。いや、努力などではない。強制された努力は、エゴによる暴力と呼んでもいいのかもしれない。


「物心ついたときから、私は家の外にほとんど出ることはなかった。一日のほとんどを家の中で――ピアノの前で過ごしたわ。でもね、そのことを不幸だと思ったことは一度もないの」


「どう、して……?」


 長内さんは震える唇で、なんとか言葉を絞り出した。それを受け、メッシちゃんは天井を見上げ、小さくため息を吐いた。


「生まれたときから鳥かごの中で育った鳥は外の世界を、空を知らないわ。その閉じられた世界で生きていくことが当たり前になっているから。何の疑問も抱かない。ただ、そういうものなのだと、愚直なまでに信じている。だって何も知らないから」


 鳥かご。それはメッシちゃんの母親の夢。夢という檻に閉じ込められて育った。外の世界から隔絶されて育ったがゆえに辛くはあったが、不満はなかった。自分だけではない、他の誰もがそういうものなのだと思っていたから。

 ひどい話だ。しかし知らないということはある意味で幸福なのかもしれない。自分の不幸を自覚出来ないから。余計な苦しみを抱えなくていいから。


「6歳になるとピアノと並行して、本をたくさん読まされた。子どもらしさを捨てるようにと。大人たちに舐められないように、見下されないように。子どもの心は捨てて、一人の演者になれと」


 それがメッシちゃんに感じていた違和感の正体か。体は子どもなのに、精神は大人。そんな違和感がずっとあった。でも、それは本来の自分の心の上から、大人という仮面を塗り固めて作られたものだった。


「私はマムの期待に応えようと必死だった。そしてコンクールに出て、当たり前のように最優秀賞を受賞した。けれどマムは褒めてくれなかったわ。だって受賞することは当たり前なのだから。アルブレア家の人間として、常にトップであることは必然だったのよ」


 どれだけ血の滲む努力をしても、それを当たり前のこととして認めてくれない。ましてやまだ子どものメッシちゃんは親の愛を求めたはずだ。しかし褒められることもなく、認められることもなく、ただ当然のこととして受け止められる。それはどれほどに寂しいことなのか。

 メッシちゃんの心残りは……親に褒めてもらいたいことなのかもしれない。自分の努力を認めてほしい。愛されたい。そういった心残りなのではないだろうか。しかし当の親はこの世界にはいない。桐島さんが消えるとき、メッシちゃんにかけた言葉を思い出す。


『ごめんね、お迎えが来るまで傍にいてあげたかったけど、どうやら僕の方が先だったみたいだ』


 桐島さんはメッシちゃんにそう言った。もしかしたら、彼はメッシちゃんの願いに薄々気付いていたのかもしれない。しかし、もしメッシちゃんの願いがそうだったとして、母親がここに来るまでに何年、いや何十年かかるのか。

 とそこで、私は肝心なことを聞いていないことに思い至った。今のメッシちゃんなら、案外素直に答えてくれるかもしれない。そう思い、私は頭に浮かんだ疑問をぶつけてみることにした。


「ねぇ、一つ聞いていいかな。メッシちゃんの家庭事情は分かったんだけどさ、メッシちゃんは何で死んだの?」


 そう、ここは死後の世界。そしてメッシちゃんは、自分が既に死んでいることを認め、受け入れていた。一体、彼女に何があったのか。


「私が死んだ原因? 病気よ。体が端の方からゆっくりと麻痺していく。そんな病気」


 メッシちゃんは何でもないことのように、さらりと答えてくれた。


「予兆はあったのよ。演奏していて、指先が痺れを感じることがあったわ。でもそんなことは昔からもよくあったし、特に気にしていなかった。でもだんだんと、演奏をしていないときでも指先が痺れるようになってきたわ。けれど演奏を止めることは許されない。私はピアノを弾き続けた。ようやく何かおかしいと気付いた時には、もう手は動かなくなっていた。それだけじゃない。足もまともに動かすことが出来ず、私は歩くことさえ出来なくなった」


 どこかの本屋で一度だけ目にしたことがある。名前は忘れたが、難病として知られ、いまだに治療法が確立されていない病気だ。確か神経細胞を侵す病気だと書いていた気がする。体を動かすとき、脳から信号が送られる。それは神経細胞を通り、体に行き届くという。その神経細胞を侵されることで、脳からの信号が届かなくなり、体が徐々に動かなくなっていく病気だったはずだ。最初は手足などの末端から始まり、麻痺は徐々に体全体に広がっていくという。


「ピアノが弾けなくなった私を、マムは見限ったわ。そして今度は病院に私を閉じ込めた。私はずっとベッドの上。何も出来ない。しゃべることさえままならない。誰でもいいから、いっそ殺してほしいとさえ願った。けれど誰も私に会いには来なかった。当然よね、知り合いなんて一人もいないもの。マムも一度として病室を訪れることはなかった。ベッドの上で、一人きり。そんな日々が二年続いたわ」


 メッシちゃんの置かれていた環境は、私たちが想像していたあらゆるものよりもひどく、辛いものだった。長内さんは話を聞くことに耐えきれず、嗚咽を零している。いつもは寡黙なマスターも、沈痛な表情を浮かべていた。


「最後は呆気ないものよ。何の前触れもなく、息が吸えなくなって、それで終わり。そして私はここにやって来た」


 沈黙が店を支配していた。誰も何も語れない。メッシちゃんの味わった地獄を誰も理解さえ出来ないのだ。


「……しゃべりすぎたわ。こうなることが分かっていたから、何もしゃべりたくなかったのよ」


 そう言って、メッシちゃんは肩をすくめて、自重するように口元を歪めた。

 私は思った。彼女は最期の最後に、一体何を思ったのだろうかと。他人に強要された生き方を、何の疑問も抱くことなく受け入れて生きてきた。そんな彼女が最期に何を思ったのか。何を願ったのか。


「ごめんなさい……私、何も知らなくて」


 長内さんは大粒の涙をぽろぽろと零していた。メッシちゃんは、それに見向きもせず、


「同情なんかいらないわ。確かに病気を恨んだこともあったけど、もう終わったことだもの」


 まるで他人事のように、そう答えた。どうして、こうも淡泊になれるのだろう。メッシちゃんの言葉には主観というものが、ほとんど感じられない。自分の感情や意志というものが、言葉に入り込んでこないのだ。ただ事実を読み上げているだけ。まるでテレビの中の自分という人生を俯瞰して見つめているだけのような、そんな印象だった。

 そんなメッシちゃんが感情を爆発させたときのことを思い出す。長内さんにピアノの話を振られたときだ。怒りというよりは、虚しさのようなものを強く感じ取れた。ここにメッシちゃんの心を救う手がかりが隠されているように思えた。


「長内さん、ちょっとピアノを聞かせてよ。メッシちゃんは何回頼んでも弾いてくれなくてさ」


 私は話題を変えることにした。直接聞いても、きっとメッシちゃんは答えてくれない。ならば、搦め手で行こう。こういうのは得意だ。


「えっ、私ですか?」


 長内さんは涙に濡れる瞳を大きく見開き、ぱちくりとさせた。そしてメッシちゃんに許可を求めるように、視線を送る。


「……好きにすればいいわ」


 そう言って、メッシちゃんは席を立ち、長内さんにピアノを譲る。


「ほら、こっちおいで~」


 私はメッシちゃんに向かって手招きするが、彼女は小さく鼻を鳴らすと、私から二つ離れた席に座る。私は肩をすくめ、長内さんの方に意識を集中させる。長内さんは何度か深呼吸して涙を拭うと、鍵盤を適当に押し始める。どうやら調律されているか、確認しているようだ。確かにこのピアノはどこか年季を感じさせる。ところどころに小さなこすり傷のようなものも見えるが、大事にされてきたのだろう。きちんと手入れはされているようだった。


「よし」


 長内さんが小さく頷く。そして、鍵盤にそっと指を置き、


「それじゃあ、聞いてください」


 滑らかに指を動かし始めた。それに合わせて、ピアノから静かでいてどこか物悲しい旋律が流れ始める。


「これは何て曲なの?」


「……ショパンの『別れの曲』」


 ぼそりと、メッシちゃんが呟いた。

 それからは誰も、何もしゃべることなく、長内さんの演奏に聞き入っていた。素人の私にも分かるほど、長内さんの演奏は完成されていた。切なくて、悲しくて、美しい。そんな音色が心を揺さぶってくる。

 長内さんが言っていた、音楽が心に訴えかけてくるという言葉。それは間違いではなかったのだ。

 やがて長内さんは演奏を終え、音もなく立ち上がると、こちらに向かってぺこりとお辞儀をした。


「ありがとうございました」


 どこか照れくさそうに、それでいて晴れやかな笑顔だった。

 私は横目でメッシちゃんの様子を窺う。


「…………」


 メッシちゃんは何も言わず、じっとピアノの方を見つめていた。


「メッシちゃんも、弾きたくなった?」


 メッシちゃんにだけ聞こえるように、私は小声で彼女に話しかけた。


「……ピアノはもう弾きたくないの」


「どうして? 私は、メッシちゃんの演奏も聞いてみたいと思ったよ?」


「…………」


 メッシちゃんは答えない。ただ寂しそうな視線をピアノに向けるだけだ。

 長内さんがこちらにやって来る。


「あ、あの……メリサさん、どうでしたか?」


「……あのときのコンクールの曲ね」


「は、はい! 覚えていてくれたんですか?」


「ええ……そうね、素晴らしい演奏だったわ。あなたのことも、思い出した」


 長内さんが弾いた曲は、二人が出会ったコンクールのときに長内さんが弾いた曲だったらしい。それにしても驚いた。メッシちゃんは長内さんのことを思い出したと言った。つまり、五年前のことを記憶の片隅に残していたということだ。


「緊張してるのが一目瞭然だった。体が強張って、表情も硬い。正直、聴くに堪えない演奏になると思っていたわ」


「あ、あはは……初めてのコンクールで緊張していて……」


「でも……」


 メッシちゃんはそう言って、どこか羨むような視線を一瞬だけ長内さんに向ける。


「お父さん、ですよね? 大きな声で頑張れーって騒いじゃって。あのときは凄く恥ずかしかったなぁ」


「そのおかげで緊張も取れていたじゃない。演奏は、良かったと思うわ」


「あ、ありがとうございます!」


 二人は少しだけ打ち解けたように見える。私はマスターへと向き直り、ピアノを指差した。


「あのピアノは、マスターの物なの?」


 私の質問に、マスターは首を振り、


「いえ、あれはメリサさんの私物です」


 そう答える。


「私物って……そういえば桐島さんもキャンバスを持っていたけど、ああいうのって持ち込めるものなの?」


「そうではありません。この世界では、その人が心の底から望む物、心残りに関与する物ならば、強く思い、願うことで具現化させることが出来るようなのです」


「……はぁ?」


 なんだ、その魔法のようなものは。いや、そもそもこの世界自体が現実離れしているのだ。具現化とか、今更か。


「でも、そっか。じゃあ、メッシちゃんの心残りはピアノに関係するってことなんだね」


「そうなりますね」


 メッシちゃんの私物のピアノと、彼女の生い立ちから何がイメージ出来るだろうか。そこから連想される何かが、きっと彼女の心残りなのだ。

 最初は母親に認められ、愛されたいという未練なのだと思った。でも母親ではなく、ピアノに起因するとなると、それは間違っているのかもしれない。そうだ、彼女は言っていたではないか。夢に縛り付けられて、檻の中で生きる生活は受け入れていたと。不満に思ったことなどないと。

 しかしそうなると、何が彼女の心を縛っているのか。彼女がピアノを弾きたくない理由とは何なのか。


「……ん?」


 そこで私は何かに気付きそうになる。頭に浮かんだ、小さな泡のような疑念。メッシちゃんの話の中で、どこかおかしなところがあった気がするのだ。それは何だろうか。

 彼女の話を思い返してみる。

 怪我をして、ピアノを弾けなくなった母親。その母親の夢を背負わされて、学校へも行かせてもらえず、ピアノを弾き続ける日々。そして子供の心を捨てさせられた。コンクールで賞を取り、有名になるも病気を患い、命を落とした。

 漠然として、明瞭にならないイメージ。それをなんとか寄せ集め、形にしていく。

 ピアノを弾かない理由。ピアノに向けられる寂しさや空ろな視線。その意味。

 体が動かない恐怖を思い出したくないから?

 いや、そうじゃない。たぶん、それは違う。

 自分の人生を無為なものと思っているから?

 それも違う。本人が否定していた。嘘をついているようでもなかった。

 と、そこで長内さんの話を思い出した。


『お父さん、ですよね? 大きな声で頑張れーって騒いじゃって。あのときは凄く恥ずかしかったなぁ』


 そのとき、閃光にも似た閃きが頭の中を駆け抜けた。


「そうか……」


 恐らく、あのコンクールが彼女にとって心残りを抱えるきっかけになった。長内さんとの出会いが、彼女に疑念を抱かせた。


「…………」


 私の考えを読み取ったのだろうか、メッシちゃんがじっと私の目を見つめてきた。そこに感情はない。まるで人形と向かい合っているような感覚。

 そうだ、やはりそうなのだ。メッシちゃんにとって、ピアノとは――


「孤独の象徴」


 ぼそりと呟いた私の言葉に、私を見つめるメッシちゃんの瞳が、確かに揺らぐのが分かった。


「えっ? えっ? ど、どうかしたんですか?」


 私とメッシちゃんの間に流れる空気に気付き、長内さんが戸惑いの声をあげる。メッシちゃんは今、恐怖していた。ずっと隠してきた心を覗かれた気分なのだろう。つまり、これが正解。


「メッシちゃんは、母親の夢を叶えるために、ピアノを弾き続けてきた。学校へも行けず、外にも出られず、ひたすら家の中でピアノを弾き続けてきた。どれだけ弾いても、コンクールで賞を取っても、母親は褒めてくれない。それでも、ずっと弾き続けてきた」


 そう、それはメッシちゃんにとっては当たり前の世界。けれど、


「コンクールで長内さんと出会った。長内さんを見て、自分の境遇に初めて目が向いた」


 独りのメッシちゃん。家族の声援を受け、コンクールに臨んだ長内さん。

 このとき、初めてメッシちゃんは他人を意識したのだ。


「ピアノを弾くことを義務付けられ、それ以外の生き方を廃絶された。いえ、教えられもしなかった。メッシちゃんにとって、ピアノを弾くことは母親のためなんかじゃない。ましてや、自分のためでもない。そう、きっと息を吸うのと同じようなものだった」


 息を吸うように、ピアノを弾く。だからこそ、疑問を抱かなかった。不満もなかった。メッシちゃんの瞳には、最初から誰も映っていなかったのだ。


「でも、長内さんと出会った。家族に声援を向けられる長内さんを見て、誰かのために演奏する長内さんを見て、メッシちゃんは初めて自分が独りでいることに気付いた」


「……やめて」


 小さな、それでいて悲痛な声で、メッシちゃんが言う。でも止めない。これはきっと必要なことだから。


「メッシちゃん、言ったよね? 病気になったとき、誰でもいいから殺してほしかった。でも、誰も来てくれなかったって」


 そう、これが疑念の正体だった。独りでいることに気付いたメッシちゃんは、ピアノを失ったとき、自分の中に何もないことに気付いた。空っぽだったのだ。だから恐れた。孤独を。独りでいることを。


「ピアノは孤独の、独りきりだった自分の生涯の象徴。独りでいたことを思い出したくないから、ピアノを弾きたくなかった。違う?」


「…………」


 メッシちゃんは何も言わない。けれど、その瞳からは涙が溢れだす。メッシちゃんは声もなく、泣いていた。

 つまりメッシちゃんにとっての心残りとは、独りきりで生きてきたということ。最期の最後になり、彼女は家族を、友達を、寄り添ってくれる他人を欲した。


「あ、あの……」


 遠慮がちに長内さんが声をかけてくる。


「わた、私でよければ、その、お友達になりたいです」


 時折つっかえながらも、長内さんは優しく、そしてはっきりとそう言った。


「…………」


 メッシちゃんは涙に濡れた瞳で、長内さんをじっと見つめる。その口元は何か言いたげに小さく開いては、閉じる行為を繰り返していた。戸惑っているのだ。初めて差しのべられた手を掴んでいいのか。


「こういうときは素直になりなよ。私も友達になってあげるからさ」


「あなたは嫌いだから、嫌」


 こういうときだけ即答するのだ。本当に素直じゃない。




 それから少しの時間が流れた。相変わらずお客はやって来る。私はお客の話を聞き、彼らの成仏の手伝いを続けていた。変わったことと言えば、長内さんとメッシちゃんがそれを手伝ってくれるようになったことだ。メッシちゃんは話を聞いているだけのことが多いけど、時折的確なアドバイスをくれることがあった。長内さんはメッシちゃんと打ち解けたことで、本来の明るさが外に出るようになり、素直な性格とそしてピアノの演奏が、やって来るお客の心を和ませてくれた。

 変わったことと言えば、それだけではない。外の世界をあまり知らないメッシちゃんに、長内さんが一生懸命話をした。食べ物のこと、遊園地のこと、学校のこと。それらを興味深そうに聞いていたメッシちゃんの顔にはよく笑顔が浮かぶようになっていた。

 人形のようだと思っていた頃の面影はどこにもない。いまや、年相応の女の子としての顔を覗かせている。

 ……そろそろいいのかもしれない。ずっとこのままメッシちゃんを留まらせておくのもいいかもしれないが、やはりきちんと彼女も成仏するべきなのだ。いや、メッシちゃんだけではない。長内さんも。

 だから、私は提案した。


「ねぇ、そろそろメッシちゃんの演奏、聞かせてよ」


 それは誰も口にしなかった言葉。メッシちゃんを苦しめていた孤独の象徴として存在したピアノ。でも、今のメッシちゃんならそれを払拭して、ピアノを弾ける気がした。

 私は聞いてみたい。彼女本来の演奏を。

 長内さんも同意見だったのか、気遣わしげな視線を送るのみで何も言葉を発そうとはしなかった。


「……私は」


 メッシちゃんは迷っているようだった。断られれば、そのときは引きさがろうと思った。時間は無限のようにある。きっと、また機会は巡ってくるはずだから。


「…………」


 メッシちゃんはピアノを見つめる。その瞳に浮かぶ感情の色は、何だろうか。


「メリ――」


 長内さんが呼びかけようとしたとき、メッシちゃんは心落ち着かせるように深呼吸を一度して、小さく頷いた。


「一度だけ、なら」


 そう言って、ピアノの席に座る。鍵盤を見つめるその眼差しには、緊張――いや、恐怖がありありと滲んでいる。過去の、独りでいたときのことを思い返しているのだろうか。

 私は固唾を呑んで、メッシちゃんの動向を見守った。

 やがて、その指が動き、音を奏でる。

 確かめるように、ゆっくりと。彼女の不安を表すかのように、小さな音で。

 ピアノを弾くメッシちゃんの姿は、まるで街中で親とはぐれて泣いている子どものようだった。ここで止めさせるべきか。そう思い始めたとき、長内さんがメッシちゃんの横に立った。


「メリサちゃん。弾いてほしい曲があるんだけど、いいかな?」


「えっ?」


 長内さんはメッシちゃんに何かを告げ、それにメッシちゃんが頷きを返した。長内さんがメッシちゃんの傍を離れ、そしてメッシちゃんは曲をイメージするかのように目を閉じた。少しの静寂。そして、再び旋律が流れ始める。

 それは、どこかで聞いたことのある曲だった。病気で二年もの間、体が動かなかったというブランクがあるにも関わらず、メッシちゃんの奏でるメロディは流暢でいて、胸に迫る何かがあった。それはひたすらに胸を突いてくる。寂しさ。悲しさ。恐怖。胸をかきむしりたくなるような、そんな衝動に襲われる。きっとこれは彼女の心の叫びなのだろう。

 メッシちゃんの表情は無だった。人形のような、作り物めいた顔で演奏を続ける。

 と、そこへ反対側から別のメロディが加わる。

 慌てて振り返ると、いつの間にか出現していたピアノに着席し、長内さんが演奏を始めていた。弾いているのは、メッシちゃんの演奏しているものと同じだ。

 連弾――アンサンブルと呼ばれる演奏法だ。一つの曲を複数の楽器で奏でる手法。

 長内さんのメロディは、メッシちゃんの曲を包み込むように、時には寄り添うように流れる。メッシちゃんは演奏を続けながらも、驚きの顔で長内さんを見つめた。それに長内さんはただ笑顔を返す。

 あなたは独りではない。私がいつも隣にいるから。そう言っているかのように。

 二人の間に、言葉はもう必要なかった。二人はメロディで会話をしていた。


「これは……」


 マスターが思わず驚嘆の声を漏らした。

 そう、メッシちゃんの演奏が変わった。物悲しさは徐々に消え失せ、弾むような、思わず笑顔になりそうな、そんなメロディに変わっていた。

 二人の奏でるメロディは、まるで子犬の姉妹がじゃれあっているようだ。いつまでも聴いていたい。そう思わずにはいられないメロディだった。

 そして私は、気付く。

 メッシちゃんの体が透け始めていることに。メッシちゃんは静かに微笑みながら、泣いていた。長内さんもメッシちゃんの変化に気付いているのだろう。やはり微笑みながら、涙を流していた。

 演奏は終盤に差し掛かり、やがて静かな余韻を残して演奏が、終わった。

 私とマスターは惜しみない拍手を二人に送る。二人はそれに小さく会釈して返すと、立ち上がった。

 後ろでは開いたドアから温かな光が差し込み、店内を明るく染め上げていた。


「香織、ありがとう」


 メッシちゃんは長内さんの手を取り、笑顔でそう言った。


「ううん、こちらこそ」


 長内さんもまた笑顔を返す。


「ピアノって、こんなに楽しいものだったのね」


「うん」


「私も、学校行きたかったな……」


「きっと、行けるよ」


「……友達、出来るかな?」


「出来るに決まってるじゃない。それに、もう私たち、友達じゃない」


「そうね。友達ね」


 その言葉を噛みしめるように、メッシちゃんは何度も友達という言葉を呟いた。


「香織」


「なぁに?」


「友達って、いいものね」


「……うんっ」


「ねぇ、香織。学校が終わった後、友達とはどうやって別れるのかしら?」


「……そんなの決まってるよ。笑顔で、ばいばいって手を振るんだよ。また明日って」


「そう」


 メッシちゃんが長内さんの手を離す。

 そして涙に濡れたその顔にとびきりの笑顔を咲かせ、小さく手を振った。


「ばいばい、また明日」


「う、ん……また明日……っ」


 とうとう長内さんが泣き崩れてしまう。そんな彼女の頭を優しく撫で、そしてドアの方へ向かって歩き出した。


「メッシちゃん……」


 行ってしまうのか。自ら望んだことではあるけれど、やはり別れは辛い。思わず呼び止めてしまった私に、メッシちゃんは視線を向け、


「あなたは最後まで嫌いだったわ。でも、ありがとう」


「もう、最後ぐらい素直になりなよ……」


「……そうね、嫌いではなかったわ。ちょっぴり嫌いだったけど」


「何よ、それ」


「好きなところも、嫌いなところも、全部ひっくるめて、それでも好きだから友達って呼ぶんでしょ?」


「……あんたも生意気よ」


「お互い様ね。ばいばい、お姉ちゃん」


「うん、ばいばい……」


 笑顔で手を振ってお別れ。

 メッシちゃんは光の中、最後に振り返り、


「ばいばい」


 手を振って、消えた。

 しかし、ドアは開いたままだ。閉じる気配はない。


「さて、次は私かな」


 そう言って、長内さんが立ち上がる。その姿もまた透けていた。


「長内さん……?」


「私の心残りっていうのかな。ずっと気になっていたことはメリサちゃんのことだったの。コンクールであの子の演奏を聞いてから、ずっと気になっていた。胸に迫ってくるような悲しさの正体は何だったんだろうって。ずっと気になって、気になって。メリサちゃんの記事が出ている本は全部買って、読んで。それでも分からなくて」


 だから、長内さんはメッシちゃんのことにあれほどまでに詳しかったのか。


「ここに来て、良かった。メリサちゃんの抱いていた悲しみの正体が分かっただけじゃない。彼女と友達になれた。あの子の悲しみを癒してあげることが出来た。だから、私ももう心残りはないんです」


 長内さんもまた、ドアの方へ向かって歩き出す。


「みなさん、短い間でしたが、ありがとうございました。メリサちゃんが寂しがらないように、私も、向こうに行きますね」


 ぺこりとお辞儀をして、


「ばいばい」


 笑顔で手を振り、彼女もまた光の中へと消えて行った。

 ドアが閉まる。

 店には、ついに私とマスターだけになってしまった。


「寂しくなるね」


「そうですね」


 鼻の奥がつんとしていた。こういうときは甘いものが飲みたい。


「どうぞ」


 見計らったかのように、マスターがカフェ・オ・レを淹れてくれる。


「ありがと。慣れって怖いね。最近、この味が好きになってきてるかも」


「そうですか」


「褒めてるんだから、少しは喜びなよ」


「はい」


 そう言いながらも、無表情なマスターに私は苦笑する。

 今日のカフェ・オ・レはいつも以上に甘い、気がした。

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